生命の誕生 ~最期を迎える 人々との出会いと別れ

川邉 会美



私は人生の中で、とても心に残る忘れられない時間があります。
それは、今からもう13~15年前の話。
私が、第1子の赤ちゃんがお腹に宿ったことを知り、近所の小さな産婦人科に、妊娠初期から後期までの検診に通い始めた時期からの話になります。

家でじっとしているのが、症に合わない私は、当時通っていた耳鼻咽喉科のクリニックで、優しい先生やスタッフに恵まれ、マタニティー用のナース服を準備して頂き、パートタイマーで働きながら、産婦人科も家の近所だったので、この距離なら陣痛が来ても病院まで歩いて到着できる!!
と、ちょースピーディー出産を思い描き、食事の管理やウォーキングを日々行い、新しい命との出会いを楽しみに、産後はできるだけ触れ合いを大切にしたいので、布オムツを使おう!!新生児用のオムツカバーとさらしを準備し、その他もろもろの育児セットを揃えながら子育てライフを楽しみに過ごしていたのですが、妊娠後期の検診で「血液検査の結果が・・・、血小板の数がかなり少ないのですが、今まで検査にひっかかったこととかありますか?」、私「ないですけど。」看護師「この数値では、うちでは何かあった時対応できないので、総合病院での出産になります。」
看護師さんや先生が病院へ問い合わせて下さり、「今日、今から診察できるらしいので、すぐに行けますか?」と聞かれ、(めっちゃ、急やし!!)驚きながら紹介状を持って、紹介された総合病院へ受診へいった。
そこは、大阪市でも評判の良い小児科で、安心して出産できるよ!と、周りの方からもお話を聞き、ほっと一安心。その後、検査の結果“特発性血小板減少性紫斑病”という、特定疾患であると判明されました。

特定疾患の話と、出産までの流れを説明された。予定帝王切開です。出産予定日から少し早めに手術日を設定して、予定日の10日前位から入院するように告げられた。 免疫グロブリン療法(手術前や分娩前にできるだけ早く血小板を安全域まで増やす目的のために行う治療)を実施し、血小板数値が上がったことを確認してからの手術になります。という説明でした。入院前は血小板数2万程だったので、手術前には10万を超えていないと出血が止まらないなどのリスクがあり、この手術は、お腹の中にいる赤ちゃんも、母親の移行抗体をもって生まれてくるので、血小板の少ない状態で生まれてくる可能性が高く、そうなると、自然分娩だと赤ちゃんが産道を通るときに、脳内出血などを起こすリスクもあるため、胎児の命を優先にとっての手術となります。Drから詳しく話を聞き、納得しましたが、できれば自然分娩が良かった。

2年2カ月後に誕生した子の出産時も、同じく予定帝王切開での出産となりました。
出産時の手術や、自己免疫疾患の治療や、産後の入院生活の期間が私の人生で、<生と死について>深く考えさせられた時間でした。

私は、出産や手術、入院生活を経験するまでは、大した夢や希望もなく、「そんなに長くは生きたくな~い」「50歳位で、よぼよぼになる前に死んでもいい。」「この世に産み落とされたこと自体が、間違いだったわ。」など、何とも言えない悲観な感情に陥ることが多かった。

しかし、2人の子供が生れて来てくれて、身体の痛みを知り、他人の痛みを知り、私の人生は大きく変わった。
子供の命を第一優先に守るために、私は2度お腹を切り開き、術後も数値は安定しなかったので、副腎皮質ホルモンの1つであるステロイドホルモンを服用し、身体の免疫を抑制することで、血小板を破壊してしまう自己抗体を抑制するという治療も実施することになりました。投与量は50mgからのスタートで、1日、1錠5mgを10錠服用、その量から2~4週間にかけて徐々に減らしてゆく、その期間は、免疫力が極度に下がってしまうため、病棟のフロアーから出ていかないで下さい。とのことで、上の子は産後1ヵ月~の1ヵ月間、下の子は産後8ヵ月からの1ヵ月間ほどの入院生活を送りました。
その期間は子供と離れ離れになる、母乳が出るのに与えることができない、病室で搾乳して捨てなければならない。急な変化やショックで心身共に不安定になり、薬の副作用で不眠が続き、食欲低下、うつ状態になっていた。

私の入院していた病棟は、白血病の方の抗がん剤治療や、がんの放射線治療の患者さんと同じ病棟でした。副作用や痛みに耐えながら、入院生活を過ごしている患者さんと共に過ごした日々や、出会った方々からかけて頂いた言葉など、決して忘れてはいけない貴重な経験や思い出として今も心に残っています。

39年の人生の中で、トータルたったの2ヵ月半という短い入院経験でしたが、手術の痛みや膀胱留置カテーテル挿入による不快感、オムツ装着体験、寝返りがうてない辛さ、薬物の副作用による辛さや、帝王切開翌日に、「白血病じゃないかの検査もしておかないといけないので」と、骨髄穿刺という腸骨から骨髄液を吸引する検査も経験した。骨の髄液を太い注射針で吸引され、「キューッ」と神経に電流が走るような痛みと冷や汗。もう2度と味わいたくないんですけど(涙)病気によっては、何度もこの検査をしなければならない人もいる。
同じ病室になった、10歳年下の白血病の女の子がいた。治療のためにほぼ1年ほど学校に通えていない。「今日は、学校に行かないといけない日だから」と先生の許可を得て、制服に着替え、綺麗にお化粧をして、ロングヘア―のカツラをかぶり、「じゃあ、行って来ま~す」なんと可愛らしい子。なんでこんな可愛い子が病魔に侵されなくてはならないのか、一緒に過ごした数週間、病気が発覚する前の体調の変化や、検査をして病名を告知されたときの話を聞いて、消灯後に涙が止まらない日もあった。
元看護師さんや、看護師長を務めておられた患者さんとの出会いもあった。「私は白血病で、抗がん剤の治療を何度もしているけど、髪は抜けないのよ。」「あ~今年も、一年生き延びたなぁ」と笑顔だった。
私も人生の最期はたとえ病に侵されようと、後悔なく笑顔で過ごしたいなぁなんて思ったりもした。
私の“特発性血小板減少性紫斑病”と認定されてしまった病状は、周りの方々の協力もあり、その後4-5年で安定し経過観察も終了し、現在では健康診断を受けても、再検査もなく完治している状態です。

2度目の術後、社会復帰に向けて、体力はそこそこ回復したものの、日常生活+α仕事となるとトレーニングさえ必要となりました。なんだか、時々スポーツバカだと勘違いされることもあるかもしれませんが、目的があってのトレーニングを続けています(笑)。私にはメンタル面での弱さもありました。でも、医療や介護分野の仕事が好きだから、この先ずっとこの仕事を続けていきたいと、その決意は揺るがず。
資格を取るために、障害福祉や介護支援分野の総復習、認知症ケア・カウンセリング知識、自身が手術後の痛みや、(薬物)治療の副作用など経験し、アロマやマッサージ知識も独学で学習。私が現在支援に関わっている方々は、私が良い支援者(ヘルパー)になるための、ケアトレーニングのモデリングとなって頂いる過程なのです。
できる限り多くの人が、社会や人と人との交流から疎外されてしまうことのないように、薬物に頼らず人間関係の修復や再構築、小さな子供からお年寄りまで安心して暮らせる地域に…そんな切実な思いもあるのは確かです。

“人生の最期まであきらめない”自己をコントロールできるよう、心も身体もニュートラルな状態にリセットできるように、セルフケア技法を身に付けたり、信頼できる依存関係を構築する。人は最期まで一人では生きていけないものです。

私は我が子という、新たな生命との出会いから自己肯定感が育てられたと思います。それは、周りの方々のサポートがあったおかげであるということに、感謝しなければならないですし、なによりも、心も身体も逞しい子供たちに、生まれて来てくれたことに感謝。わが身を捧げる気持ちでサポートしていきたいと思います。

おそらく残り2-30年はあろう、私の人生の「生と死について」実体験記録でした。

※川邉 会美プロフィールはこちら


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