人は死んでも関係は残る

人は死んでも関係は残る

わたしの



 先日休暇をいただきお墓参りへ行きました。
 若くして亡くなった友人のお墓は徳島県にありました。東京から飛行機で香川県の高松空港へ入り、一泊してからレンタカーで徳島を目指します。途中で讃岐うどんを食べたり、金比羅さんを遠目に見たりと随分呑気な道行きでした。
 本場の讃岐うどんは美味しい(笑)
 お墓参りが終わったらその友人の実家に一泊。夜は豪華な焼き肉と酒で宴会の運びとなりましたので死を悼むという雰囲気ではありませんでしたが、それがお酒が好きだった彼には一番ふさわしいとも感じられました。次の日は高知へ移動しひろめ市場で鰹のたたきを肴にまた酒を飲んでいました。その旅で考えていたことを書こうかと思います。

 「どうして人はお墓参りするのか」と聞かれたら何と答えればよいでしょうか。
 そこにあの人が眠っているから、あの人に会いに行きたいから、なのでしょうか。しかし、そこにあるのは四角に切り出された石とその下に納められた骨にしか過ぎません。
『お墓参りとは石という物質に水を掛け磨き、線香や花を手向け、地面の下の骨に手を合わせ、頭を下げる一連の行為である』と極めて表面的に解説することができます。こうして文字にすると味気なく、どこか滑稽でもあります。しかし、私たちはお墓参りがそれだけではないことを体感的に知っています。

 以前、全国の知的障害者支援に携わるスタッフが参加する勉強会において、意思の分かりづらい方の支援について発表させていただきました。重度の知的障害があり発語もなくなかなか思いを伝えられない方の意思をどうくみ取ればよいのか、自分の行ってきた取り組みや迷いを発表させていただきました。

「人は死んで何が残るんやろ?」
発表後、その会でスーパーバイザーをしていた方が会場に投げかけました。
「骨かな、財産かな、名誉かな、家族かな…」そして、会場を見渡しながら「死んでもなお、最後に関係だけは残るんちゃうかな?」と言いました。
意思を伝えられない人=死者という意味ではもちろんありません。意志疎通について迷っている私に対して、例え相手が重度の知的障害者でも、認知症でも、誰であっても…それが仮に死者であっても、大事なのはその人との関係なのではないか、ということを暗示してくれたのだと私は受けとりました。

 人は死んでも関係が残る。その言葉はずっと心に残っていて、そこに、人がお墓参りをする理由があるのだと思いました。ただの物質である石と骨に参るのも、写真を拝むのも、経を唱えるのも物や行為を通してその相手(死者であっても)との関係を確かめ合うということです。例え相手がすでに死んでしまいこの世からいなくても、関係だけは残っていて、その関係を確かめずにはいられないのが人間です。

 類人猿とヒトの間に位置づけられるネアンデルタール人のお墓から多種多様な花粉が発見されたそうです(髙谷清「はだかのいのち」より)。6万年前にすでにネアンデルタール人は死者のために花を捧げていたということの証拠だと推測されています。考古学者の分析によると埋葬が行われたのは最後の氷河期の6月のよく晴れた朝だということまで分かっているそうです。その朝に誰かが、死んでしまった誰かを思い、野山を歩いて花を集めていました。学術的なことはよく分かりませんが、その6万年前の晴れた朝の野山で、ヒトの祖先である彼らが他者を思い、花を集めている光景が目に浮かびます。ネアンデルタール人もまた、花を捧げることで死者との関係を確かめていたのでしょう。

6月の朝の花畑ではありませんが、私もまた四国で、死者との関係を確かめるなんてことを言い訳にして昼から酒を飲んでいたのでした(汗)。

お墓参りを巡ってちょっと思ったことでした。


【プロフィール】
「わたしの」
1979年生まれ。山梨県出身。
学生時代は『更級日記』、川端康成、坂口安吾などの国文学を学び、卒後は知的障害者支援に関わる。
2017年、組織の枠を緩やかに越えた取り組みとして「わたしの」を開始。
「愛着と関係性」を中心テーマにした曲を作り、地域のイベントなどで細々とLIVE 活動を続けている。
音楽活動の他、動画の制作や「類人猿の読書会」の開催など、哲学のアウトプットの方法を常に模索し続けている。
♬制作曲『名前のない幽霊たちのブルース』『わたしの』『明日の風景』
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