2020年はこうありたい 『 朝顔の種 』

2020年はこうありたい 『 朝顔の種 』

原田 冬馬



何の因果か産まれおち、物心つくころには「100年後お前はこの世におらんのだ」と、猿に毛が生えた程度の拙脳に至極あたり前の死生観がふつふつと沸いてからというもの、恐れ諦め泣きわめき、「仕様がないさ」と生かじりの哲学者を決め込んでひとしきり野良ついた挙げ句、独りじゃ生活もおくれぬまでに草臥れ果て、生家に泣きつきフテ寝するだけの惰弱な毎日、丁度1年くらい前かそんな折、東京におる姉の娘、小学校に上がるか上がらぬか覚えたてのツタない文字で「そだてて(命令形)」と一筆そえて、朝顔の種をひと粒おくってよこした。種の良し悪しなぞ毛頭わからぬが、仮にこのひと粒、病んでおって芽のでなければ幼い姪さぞや悲しむ、しかし土台たったひと粒でどうしろと?母と顔を見合わせるも、埋めるにさして手間がかかるでなし、時節もある。とりあえず天にまかせてエイヤッと鉢中に投じ固唾を飲んで見守ること2日、ちいさなちいさな双葉がはえよった。5ミリ四方のワラ半紙をグシャとつぶしてほぐしたような、可愛らしくも弱々しい幼葉は、一体こいつがどう転べば素直に育つのかと、いぶかる私の心配よそに、日をおうごとにピンと張り、いじらしい事よと思う間もなく茎間に新たな葉を生じ、その縮れ葉が大きくなるころには又ぞろ小さな葉が。あれよあれよと朝顔は、夏中、天を目指して伸びつづけ、花をつけ花を散らし、実を成し、秋のはじめに枯れおちた。

花には花の恥があったろうか。葉には葉の後悔があったろうか。畏れが、喜びが、幸福が、望みが。

いずれにせよ朝顔が、「あぎゃぁ何をこん糞暑いさかりに植えてくれとんじゃ、一杯呑まなやっとられんわ、うへ呑みすぎて脱水症状、早よ水、水…」などとワメくはずもないので、彼のモノが何を思っておったかは私の預かり知るところではないが、解らないこそだろうか、さまざまに思いを抱きながらも全て受け入れ、植木鉢の生涯をまっとうしたのだ、と妄想が胸中に渦まく。願わくばかくのごとく在りたい。リキまず騒がず、ただ見えている道を前進して行きたい。だから今年は…

駄目だ、似合わぬコトしたむくいか、年始の目標をたてるつもりが、これでは朝顔の気持ちマル無視ではないか、あんまり神格化しすぎちゃおらんか、草葉の陰で種が泣く!

だから精一杯、正直に書くならば、今年はもう一度、朝顔の種を植えたい。そして無事に芽のでたあかつきには、生き方についてじっくり話あってみるつもりである。

大丈夫だ、今度は十粒いくらもある。