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人間がひとり、今母親の体を出たのを見た

人間がひとり、今母親の体を出たのを見た

間傳介



先日第二子のお産に運良く立ち会いました。

夜がまだ明けきらないうちに、「陣痛だ。10分切りそうな間隔」と、家内の声を聞き、予めまとめてあった荷物と持って助産院へ。
窓から薄曇りの明かり入る中、10時前にちゅるんと、第二子は家内から出てきました。

お産の最中、普段肩揉み等では褒めてくれる家内も、私が触るとどうも違うようで、触れること自体本当に強く拒みます。助産師の方に請われ、いざ力技の必要な際には出動しましたが、それ以外は部屋の隅で座って眺めておりました。

1人目の時はお産自体が夫婦2人にとって未知のことであったので、家内はいいとして、冷静であるべき私も同調して周りが見えませんでした。

2人目の今回は、「彼女(家内)は産める人だ」という希望というか信頼が私の根幹に揺るぎなくあり、また今回のお産に力添えを下さるお二人も、1人目の子の妊娠時から、ずっとこれまで関わってくださった方々であること、家内とこどもに対する接し方は勿論言うまでもなく、夫である私とも多くの時間をおしゃべりや考え方などを話し、全幅の信頼を寄せられる方たちであることが、私をてんとして部屋の隅に座らせて下さったと思います。

家内にお産のあと(最中はおしゃべりなどできませんが)ゆっくりと話した折、やはりホルモンや脳内麻薬のようなものが出るためか、簡単に言えば神秘的な感覚であったということでした。きっと怒濤のような時間であるのだと、わたしには想像することしかできません。

さて、わたしの感想としては、「雨が降ると土が潤う」とか、「太陽が段々と動いている」といった、

「理(ことわり)の中に正にいるのだ」

というとても単純で、清々しい気持ちでいました。

よく神話や、仏教の言葉などでも「生死は表裏一体」というような言葉や視点が出てきます。以前のわたしは、頭の中にそれらの言葉を額に入れて飾ることはできても、その言葉とひとつには成れなかったので、成っている振りというか、自分を教育する、そう思うように強制するような状態であったように思います。

しかし今回のお産の場を過ごしてから、やがて来る死を恐れない「生死は表裏一体」ということが腑に落ちたという実感があります。

二人目の子が無事に生まれてくる保証などわたしのような素人には分かりきれない訳で、不安になろうとすればいくらでもなれるのです、逆もまた然り。

例えば家内と二人目の子のどちらも喪う可能性があることへの恐怖というのはまずふと思いつくのですが、「そうなったときに考えるしかない」ことであるし、「今すべきことは不安になることではない」「すべきことをするのみ」とはっきりわかります。

これは相手や周りがどのような状況でも、つまり元気にしていようが死にそうになっていようが、することといえば変わらず、「力を余計に入れず、誠実にあるのみ」なのです。助産師のお二方や、家内と生まれくる子供の姿を見て、そう得心しました。

おもちゃ箱をひっくり返したような多幸感、というのはわたしは随分追い求めてきたように思いますが、あれは余計なものに過ぎなかったと心底思う次第です。
また、追い求めずとも既にあるとも感じました。現実に私が必死にかけようとしていた透明な暖簾を、今回のお産という出来事が、くぐらせてくれたように感じます。

第二子はわたしにとって、風で木の枝が揺れるように、その音が離れたわたしの耳に微かに感ぜられるように、生まれました。


間傳介 プロフィール

1981年、鹿児島県産まれ。
宇都宮大学教育学部国語科教育八年満期退学
「東京に行け」との高校の恩師の言葉を独自解釈し北関東に進学。
修辞学、哲学、文学、芸術、音楽、サブカルチャー等乱学。
効率、生産性ばかり喧伝する文化の痩せた世の中になった2008年ごろ、気づいた頃には相対的に無頼派となっており、覚悟し流れ流れて福祉業界に。
知的障害者支援、重度訪問介護、などに従事。
「能(よ)く生きる」ことを追求している。
友愛学園成人部職場会会長