親の障害受容の大切さ

親の障害受容の大切さ

鶴﨑彩乃



 「彩乃ちゃんのお母さんってどんな人?」とたまにヘルパーさんに聞かれる。

それには、理由がある。私が1人暮らしをしてから、母が私の部屋に来たのは2回か3回。そのため、私の母を実際に見たヘルパーさんはごくわずかなのだ。最初の質問に私は、決まってこう答える。「綺麗な人だよ。片平なぎさと木の実ナナを足して2で割ったぐらいのルックス。」と。わからない人は、調べていただこう。ちなみに今は、全盛期よりもかなりぽっちゃりしたので、木の実ナナ率が上がっただろうか。性格的には、直射日光のような人。行動力の塊。ファンキーな人。子どもの目から見て「母」という役割が1番向いていない人だと思う。それはなぜかというと、縛られることがなにより嫌いな人ではないかと感覚的に感じるからである。それは、「常識」や「慣習」にとらわれないということでもあったのだろう。

その特性が、私の人格形成に大きな影響を及ぼしている。例えば、母はクラブのママだったので、交友関係が恐ろしいほどに広い。母とお客さんの食事には、なぜか幼い私が知らぬうちに同席させられていたし、LGBTの人やちょっと変わった人がいた。私が1番覚えている衝撃的な母の友人は黒いマントと黒いハットをかぶっていた。しかも、夜に現れた。そりゃ、怖い。そんな母の広すぎる交友関係には、色々な人がいたし、多種多様な価値観があった。それを、自然体で受け止められる人。それが、母だ。だから、私もそれを無意識のまま、受け入れていたと思う。母より自然体ではなかったかもしれないが。母の考え方は、私の障害に対してもそうだったと思う。脳性麻痺に良いと言われる療法や研究があれば、どこにでも行って誰にでも話を聞き、少しでも私の生活に役立つ福祉用具があれば、すぐ取り入れていた。そのせいで、保守的な整形外科の先生とはまぁーよくケンカしていた。そのため、母は有名人だ。私が、1人で通院するようになった今でも。あれは、ブラックリスト入りしてたんだろうな。絶対に。しかし、そのおかげで幼いころから電動車いすに乗ることができ、私の世界は格段に広がった。私の世代はまだまだ障害児の親は過干渉な人が多かったと私は思う。そんなご時世にうちの母は革命家だった。

この前のコラムでも書いたが、母が特に厳しかったことが2つある。それは、母自身の仕事と、私の自立に関することだった。母には、仕事に対する鉄のルーティンがあって、それは何が起こっても変わらないものだった。それは、私が風邪をひいて熱を出しても変更されることはなかったので、さみしかった。「この人は、私より仕事が大事なのだな。」と母の仕事に対する姿勢に嫉妬していたと思う。自立に関しては、私が中学のころから「ママ、分からないの。行ってきて。」と言われて、自分で福祉制度の申請書作成・提出をしていた。私は、それが普通だと思っていた。しかし、本人に任せるほうが手間だったのかなと今になって思う。それに、そういう小さなところから自立を促したのだろうと思う。母のしつけは、基本的にハードルが高く、子どもの立場からは非常にキツイものがあった。例えば、母は「子ども扱い」ということを一切しない人だった。そのため、礼儀作法に厳しく、ご飯のときはニュースを見ながら意見を言い合う。そんな家庭だった。そんな家庭環境だったから自分で考えて行動する。そんな「癖」が身についたのだろう。母が冷静に、時には冷酷に感じるほどに私に「障害者である現実」を伝え続けてくれたから、今の私がいる。感謝している。しかし、人によっては劇薬だったかもしれない。私には合っただけのこと。それは、母と私に縁があったからこそなせる業だったと思う。

私にとって、母と同じ立ち位置の人がもう1人いる。それは、父だ。しかし、父と私は最初から一緒に住んでいたわけではない。私が、13歳のときに母が1人で介助することが辛くなっていたのを機に同居を開始したのだ。もちろん、それまで父にあったことがないわけではない。しかし、一緒に住み始めてから合わないところが徐々に鮮明になった。3人で同居してからすぐ、母は新しく立ち飲み屋を始めたため、父と2人の時間が増えた。もう地獄だった。父にいくら体温調節ができないことや月経がしんどいことなどを説明しても腑に落ちない様子だった。自分の娘に障害があることは父には理解できてはいたと思う。しかし、障害があることによって、どのような辛さがあるのかということは考えていないように思っていた。少なくとも私はそう感じていた。今の私は父のことは嫌いではない。興味がないのだ。頭の片隅で父のことを考えるのもめんどくさい。ひどい娘だろう。大丈夫。自覚している。だけれどそんな感じなのだ。父と私は紛れもなく親子だ。しかし、母とは真逆で父と私は縁がなかったのだ。それが今の答えだ。

子どもに障害があったとき、それを親がどのように理解し、把握するのか。それが大事だと私は思う。それが、障害当事者の障害受容の根幹となるからだ。そういった意味で、私にとって母は最適な人であり、父とのギクシャクした関係性は、1人暮らしを続けさせる原動力の1つである。そういう意味では感謝だろうか。1人暮らしを始めてから母との関係も良くなった。だからもう一緒には住まない。今の距離感が大好きだ。

最後に母上へ。これからもあなたらしく楽しく過ごしてください。ちょっと、落ち着いて生活してください。ありがとう。これからもよろしく。



【プロフィール】 鶴﨑彩乃(つるさきあやの) 障害名:脳性麻痺(先天性=生まれつき)、神戸学院大学 総合リハビリテーション学部社会リハビリテーション学科 卒業生、精神保健福祉士・社会福祉士 資格所有、大阪で一人暮らし 6年目、趣味 お城めぐり (目標 現存十二城制覇)

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