言葉にある空洞

言葉にある空洞

間傳介



今日、私たちの口に登る、また指先で綴る言葉は、スーパーに並ぶ切り身の魚のようなものではないかと思うことがあります。
「ふわとろチーズオムレツの10品目健康サポート弁当」と書いてあったりしますね。

「全力で努力する」というと、我が身振り返らず手ぬかりない姿勢にすがりつくつもりに、体を委ねかけようと重心を動かしてしまったあと、その言葉を三割ならまだしも八割引きで聞かねばならないと思い知る虚しさは、一体誰の為にあるのでしょうか。

生まれ故郷を知らぬ幼児が、「お前はもともとこの家の子供だよ」と大人たちに言い聞かされ、無邪気に過ごしているように、尚「情報伝達のために産まれたのだよ」「取り繕うための道具だよ。」と微笑まれれば、青空が抜けるように「はい!」と返す声の、その小気味良さがかえって、中に控えるがらんどうの拡がりを際立たせて、現代の言葉は、生き生きとはつらつと、空虚でいる。そんな風に思うことがあります。

それでも短い連なりであれば、なんとか急場をしのぐのでしょう。日曜大工の達成感は早晩支障が出る。今度はこうすればいいんじゃないかと思案したまま取り付けた棚は歪んでゆく。家が地盤があればこそ、また取り付けようと思う気持ちの的がある。また、そういう気持ちになってみようと思う。そうではないですか。

言葉のがらんどうの正体は、「通じる」という機能そのものに不可分に備わった「距離」であると言えるでしょう。指したいものに、撫でたいものに、掴みたいものに、言葉は漸近線を描くように始めは勢いよく近づき、限りなくその物事に向かってまっしぐらに飛んでいきます。後先に伴った形容詞や抑揚がその線を温めて冷やし、しなりを与えてさらに近づきます。

しかしその運動はやがて、対象の周りをぐるぐると速度を持って熱を帯びて、ちょうどグラスファイバーがぐるぐるぺたぺたと張り巡らされ張子が出来上がるようなことです。その過程で言葉は指し示すそのものには成り得ぬ呪い、それを以て他者との共通記号たる位置を占めるのです。

伝言ゲームの揺らぎがおかしいのは、一生懸命に伝えた連鎖が迷子になっていく悲しみをどうともできず、もはや笑うしかないという、言葉をつかってしか暮らせない私たちが、他者とほとんど唯一共有する「言語生物・人間」の、おかしさ、悲しさ、それもしょうがないという諦観、これが露呈するからなのでしょう。

「言葉はがらんどうだ」と言ったところで、なにも昨今のカタカナ英語の羅列や、どこかの政府が答弁に、自分で喋るのでなく、誰かが書いた文をチラチラ見ながら気のない棒読みをすることばかりを指すのではないのです。
「あなたを愛しています」と言ったとして、その言葉が口から出るや否や陳腐に思えたり、歯が浮くように感じたり、言いながら「愛とはなんだ」「分かり切っていない愛について語る自分はなに様なのか」「でも他にどう伝えればいいか自分にはわからない」と脳の一部が考え込んだりするのは経験された方も多いのではないかと思います。 愛してると言ったところで全ての気持ちが伝わるじゃなし、じゃあ何と言えば良いか。私個人で言えば、「愛憎相半ば、好きすぎて嫌いになりそうなぐらい好き!ドチャクソボンボンボンのギョエ〜〜ンチョ〜ンの色々味!をあなたに感じる!」と、私なら言いたいわけですが、これでも一度口にしてみると、あそこの抑揚はこうした方がよかったか、ああした方がよかったかと、ま、顧みることになるのです。

「知ることは誤解することと心得たり」と昔の人は言いました。言語すなわち情報伝達とされがちな今の世の中では単に不完全燃焼や、孤独さの理由とされそうですが、考えてみれば皆そうであれば、皆孤独であると言えるし、皆誤解の中、真に正確な表現の中に暮らしてはいないと言えます。
それならばそこで遊び始めるしかないのではないか、と私は思うのです。

本当か嘘か分からないが、夏目漱石が英語の「I love you 」に相当する日本語はなんぞなもしと時の生徒に問われたときに「月が綺麗ですね」と答えたという逸話がある。

言葉はがらんどうなのは百も承知。「私の右手には指が5本しかない」と嘆く人はそうないわけで、がらんどうの言葉しかこの世にはないと、諦めればいいのではないでしょうか。

さて漱石は、「I love you」を「僕はあなたを愛しています」でなく、「月が綺麗ですね」と「訳」したわけですが、このエピソードは、日本人の奥ゆかしさや、直接的な言葉遣いを習慣的に伝統的に嫌がる性質の例としてあげられることが多いエピソードです。

しかし私はこのエピソードを、それだけで表すのはもったいないと思っています。

言葉にはどう表現してもそのものの100%を表現しきれないという致命的欠陥を孕みつつも、同時に言葉に備わる響きや味わいを、相手に送ることもできる。と伝えている点も、見逃せないことと感じています。
がらんどうにも、楽器が空洞を持てばより響くように、趣味味わいをもたせることもできる。がらんどうとがらんどうの付き合いであれば、共鳴することもできます。伝達以外の意味を持たない、書いた紙を貼り付け合うような会話より、共鳴、倍音を持って言葉とする。そうすることは即ち「豊かである」ということであると考えます。


間傳介 プロフィール
1981年、鹿児島県産まれ。
宇都宮大学教育学部国語科教育八年満期退学
「東京に行け」との高校の恩師の言葉を独自解釈し北関東に進学。
修辞学、哲学、文学、芸術、音楽、サブカルチャー等乱学。
効率、生産性ばかり喧伝する文化の痩せた世の中になった2008年ごろ、気づいた頃には相対的に無頼派となっており、覚悟し流れ流れて福祉業界に。
知的障害者支援、重度訪問介護、などに従事。
「能(よ)く生きる」ことを追求している。
友愛学園成人部職場会会長

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