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『LOST BOYS』~放課後の授業【後編】~

『LOST BOYS』~放課後の授業【後編】~

わたしの



前回までのLOST BOYS〉
中学校時代の担任の先生が亡くなった報せを聞いて、同級生に連絡した私。そのままzoom を使って弔い酒をしようということになった。
パソコンの画面を通して先生の思い出話に花が咲く。一番記憶に残っているのは放課後に生徒指導室に呼び出された中学二年生の春の日のこと。
悪い行いが原因で呼び出されたのだが、先生はまったく怒っている気配もなくかわりにピーターパンの話をはじめたのだった。

「ピーターパンがそのままおっさんになったらどうなると思う?」

先生の質問に対して、私たち三人は顔を見合わせて何と答えるべきか探りあっていました。
ネバーランドでは歳は取りません。ピーターはずっと子どものままです。
ピーターパンはいつでも自由。やりたいことをやるのです。
LOST BOYSを従えてネバーランドを遊び回り、海賊やワニをからかって怒らせて面白がっています。
そんなピーターが見た目だけ大人になり、おっさんになったらどうなるか。

「遊び人か、すごい強欲なオヤジ」と、仲間が適当に答えました。

「おー、鋭いじゃねぇか!」
違うと否定されるとみんな思っていたので先生の反応は意外でした。

「じゃあ、答えを言うぞ。
ピーターパンはおっさんになるとフック船長になります」
先生の答えはさらに意外だったのでちょっとびっくりして三人とも黙ったままでした。

海賊の子分を従えてネバーランドを船で回って金銀財宝を集め、インディアンたちやピーターたちとの戦いに明け暮れているフック船長の姿は、LOST BOYSを従えてネバーランド中を遊び回り、人魚とイチャついたり、海賊やワニをからかって怒らせて面白がっているピーターパンがそのままおっさんになったときの姿に重なると言うのです。
ピーターパンとフック船長というのは物語の中では敵対関係にありますが、実はコインの表と裏のように重なりあっている関係なのだと先生は言いました。
そう言われてみるとなんとなくそんな気がしてきました。
二人ともどこか孤独な感じがするのも共通点としてあります。

「おまえらみたいなピーターちゃんは大人になると船長になるんだよ(先生はピーターパンのことをピーターちゃん、フック船長のことを船長と呼んだ)」

先生にそう投げ掛けられたことをzoom の友人もよく覚えていました。

ピーターパンみたいに生きてるといつの間にかフック船長みたいな大人になるぞ、と脅かされたのでした。

先生は「世の中〈船長〉が多すぎるんだが、どうにかならないのか」とぼやいてもいました。
その〈船長〉とはどんな意味なのか考えると、身勝手とか、自己中心的とか、利己的とか、無責任とか、もっとざっくり言うとマナーが守れないとか、子どもっぽいなどのことを指すのではないかと今になってみれば分かります。

zoom の友人は現在公園デザインや管理の仕事をしているのですが、ゴミの問題に頭を悩まされているそうです。
清掃のスタッフさんが毎朝公園を回ってゴミを拾い集めてくれます。タバコの吸殻、空き缶、ペットボトル、お菓子の袋、弁当の容器などなど大量のゴミが捨ててあるそうです。しかも、拾っても次の日には同じくらいの量のゴミがまた捨ててあるのだと言います。
そのことを考える度に、先生が言っていた〈船長〉を思い出すとのことでした。

「どうしてこうも〈船長〉が多いのかなって俺も思うようになったんだよ」と友人。

友人は小学校低学年と幼稚園に通う二児の父親でもあります。私も同感なのですが、子育てしていて子どもを公園に連れて行って歩かせるとタバコの吸殻を拾ってくるし、飲み残しの缶がそのまま捨ててあるから飲もうとしちゃったり、どうしてポイ捨てできるのかその神経を疑うようなものまで平気で捨ててあります。なんて身勝手な、想像力の欠如した輩が多いことかってつくづく腹が立つと友人は言い、

「中庭に大便して悪かったなって反省した」

と、力弱く笑いました。

「いろいろ反省するよな…」
私も画面の友人に力弱く微笑みかけました。

「誰かが片付けてくれたんだもんな………」

「その人が一番偉いよ」

あの頃はよく分からなかった先生の言葉が鐘の余韻のようにずっと小さく低い音で響いているような気がします。そしてことあるごとに思い返されるのです。

「ピーターとフック船長は見た目は違うけど、中身は一緒だ。表面に惑わされるな。見えるものだけで判断してはいけない」
そんなちょっと哲学的な言葉も強面の姿に似合わず言っていたことも思い出しました。

「じゃあ、俺たちはどうしたらいいの?」
仲間の一人が唐突に質問しました。

「おまえさ、さっきも言ったけど見えるものだけで判断するんじゃねぇぞ。
ピーターとフック船長は違うように見えて同じもの。
だけど、その逆もあるぞ。同じように見えて違うもの、それは何だ?
それは、ピーターとLOST BOYSだ。
LOST BOYSはピーターパンの子分として行動を共にしているが性質は真逆!」

ずっと子どものままでいたいピーターと大人になりたいLOST BOYS。
ネバーランドで遊んでいたいピーターとネバーランドを離れて未知な世界へ飛び出したいLOST BOYS。
この二つの対比がピーターパンの物語に実は巧妙に隠されているのだと先生は教えてくれました。

「最近になって偶然目にしたんだ」と、友人がLINEにリンクを貼ってくれました。開くとそれはピーターパンについて書かれたWikipediaの情報で、そこには以下ように書かれていました。
LOST BOYSは『原作ではウェンディたちとともに現実の世界へ帰り、ダーリング家(ウェンディの家)の養子となる。その後、ウェンディたちとともに学校へ通い、立派な大人に成長した(成人に成長後、カーリーとニブスが社会人となり、スライトリーは貴族のご令嬢と結婚し、トゥートルズは裁判官となった)。』

「……先生の言ってたこと本当だったんだな」
と、私は思わず呟いてしまいました。

「信じてなかったのかよ!」と、友人に突っ込まれ二人でまた笑いました。

「二つの正反対のものが同時にある」

そう言って先生は立ち上がり、生徒指導用の標語を貼るぐらいしか普段は使われないホワイトボードに簡単な人間のマークを書きました。ちょうどトイレのマーク(🚹こんな感じ)のようなものでした。
それから、その人間の頭のてっぺんから左右を中央で二つに分けるように線を引きました。
そして、右側には「ピーターちゃん╱船長」と書き、左側には「LOST BOYS」と書きました。

「この正反対の二つがおまえの中にあるんだよ」

そのように言われても当時はよく分からずにいました。単純に言ってしまえば「成長したくない心」と「成長したい心」を同時に持っているということではあると思ったのですが、まだその言葉は具体的な実感を伴っていませんでした。

それが分かったのは自分の子どもがいわゆる「魔の2歳」を迎えたとき。身体機能や知能が発達して今までできなかったことができるようになり、分からなかったことがどんどん分かるようになってきたときに突然全て「やだ!」と言いはじめました。
御存知「イヤイヤ期」です。

成長していく中で力がついてきて、できるという見通しや予測がある程度つくのと同時に、それができなかったときにどうしようという見通しも立ち、その不安や恐れから「やだ!」と言ってとりあえずは踏み留まろうとしているように私には見えました。
もちろん学術的な詳しいことは私には分かりませんが、成長していこうとする揚力のようなものとそのままバランスを保っていたい抑止力のようなものが激しく複雑にぶつかり合っているように側で見ていて感じました。
それはまさに成長したいLOST BOYSと成長したくないピーターとのせめぎ合いでした。

二つの真逆な心が同時に存在し、その葛藤を我々は生きている。

幼児の姿に人の心のあり様を教えられ、そのときにやっと先生の言葉をリアリティーを持って実感することができたのです。
そして、これは幼児だけに限らず成長してもそのまま人間が持ち続けていく二つの心なのです。

だから人の心は一筋縄ではいかないし、スパッと割り切れるものでもないことがなんとなく分かります。そもそも人間の存在の根本に矛盾や曖昧さ(グレー、スペクトラム)があるのですから。

振り返ってみれば私も二つの心の間で行きつ戻りつ、遠回りをして大人になってきたのです。
怖じ気付いたり、尻込みしたり、逃げ出しちゃったことの方が多いですね(^_^;。
大人になっても「ヤダヤダ」ともがいたり、ごねたりしながらなんとかくぐり抜けてきたのだと思い返されます。

「みんなLOST BOYSだな(笑)」

先生が珍しく笑いました。

やりたいことだけをやりたい、自分の意のままにしたいというピーターパンは利己的な存在です。
しかし「自分は自分だ」という利己的な心と「自分は自分たちだ」という仲間を思いやる心、この二つの心が俺たちの中には同時に存在している、とも先生は言いました。
これは今になって考えるととても大切なことだった気がします。

「大人たちをからかって予想通りの反応を引き出して喜んでいるような、その場かぎりの満足感(想像通りにことが運ぶ安心感)を感じたいと思うのと同時に、それではいけない、未知な世界に飛び出して行きたい、自分を試したい、自分の力を(誰かのために)発揮したいという気持ちが同時におまえたちの心に存在していることに気づくことだな」 そう言って先生は椅子に戻り、冷め切ったコーヒーをもうひとすすりしました。
そして、おでこに手をやって面倒くさそうな表情で壁の時計を見て、

「もう帰れ」

と、言いました。時刻は5時になっていました。

「どうしたら〈船長〉にならずにすむの?」
仲間がもう一度最後にすがるように聞いたのを今でもはっきり覚えています。

「知らねぇ、自分たちで考えろ」

「そんな」

「うるせぇ、おまえたちの先は長い。ゆっくり自分たちで答えを見つけていけ」

そう言って先生は私たちを手で追い払いました。
追われるがままに仕方なく私たちは生徒指導室を後にしました。
その頃にはすっかり夕暮れになっていました。
校舎の三階の渡り廊下から見た西の空の夕焼けの景色ははっきりと記憶に刻まれるほど美しかったのです。山の上に湧き出した雲の輪郭が金色にギラギラ輝いていました。

「変な先生だったよな」
zoomの友人が改めて言いました。
あのときから約25年の歳月が経ちましたが、あの放課後に生徒指導室に呼び出されて先生に投げ掛けられた言葉のいくつかは今でもはっきりと覚えています。
あれはまさに放課後の授業でした。
先生にとってはまったくそんなつもりはなかったと思います。上司から命令されたからとりあえず実績として残さなければならないというぐらいの面倒くさいものにしか過ぎなかったでしょう。
だからといって適当な嘘や作り話でお茶を濁した訳でもないことは子ども心にも分かりました。
きっと借り物の言葉で説教したり、先生然とすることをひどく嫌っていたのだと今になって思います。

先生はそんな美学の持ち主だったのだと、友人とzoomを使って弔い酒を酌み交わしながら振り返りました。

私たちはもう一度杯をパソコンのカメラに近付けて「リモート献杯」させていただきました。

ー先生に「献杯」!ー


おしまい(^_^;



【プロフィール】
「わたしの」
1979年生まれ。山梨県出身。
学生時代は『更級日記』、川端康成、坂口安吾などの国文学を学び、卒後は知的障害者支援に関わる。
2017年、組織の枠を緩やかに越えた取り組みとして「わたしの」を開始。
「愛着と関係性」を中心テーマにした曲を作り、地域のイベントなどで細々とLIVE 活動を続けている。
音楽活動の他、動画の制作や「類人猿の読書会」の開催など、哲学のアウトプットの方法を常に模索し続けている。
♬制作曲『名前のない幽霊たちのブルース』『わたしの』『明日の風景』
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