福島原発から学ぶ自身の生活
土屋訪問介護事業所 前橋
高橋 亘
2011年3月11日 東北地方太平洋沖地震による津波の影響で福島第一原子力発電所はメルトダウンなど一連の放射性物質の放出を伴った原子力事故を引き起こした。
この一文だけを読むと数年前に書かれた文章に感じる方も少なくないのではないでしょうか。
現在のニュースはコロナ一色となっているが、日本において忘れてはならない危険因子はまだまだ未解決のまま同時進行している。
今からちょうど10年前の震災後はこのニュース一色であったことを思い出す。
当時、震災から1か月後の4月に会社へ依頼があり1週間程、宮城県のデイサービスのお手伝いに伺う経験をした。
スタッフや利用者に死傷者が多くでたため、運営が立ち行かないとの理由でした。
私の他にも京都からも支援員の方が数名おり、使用されていない倉庫にて寝泊まりをしながら昼間のコミュニケーション支援や入浴介助を手伝ったが、今にして思えば戦力と呼ぶにはあまりにも無知で実力が足りなかったと感じる。
被災されたスタッフや利用者の方々から、その時の非難の話を聞かせて頂いた。というよりは、あまりの喪失感から記憶が色あせずつい言葉になって溢れてしまったような印象を受けた。
地震発生後、しばらくして津波の情報が入り寝ている利用者をスタッフが背負って腰まで迫る水位の町中を移動したそうだ。
近くの体育館では避難には役に立たず、入口が二階にある飲食店が急遽、避難場所として場所を提供してくれた。しかしながら、避難の途中でも水位は上がり、足を取られるような状況で利用者を背負ったスタッフは辿り着くこと叶わず不幸に見舞われたと、淡々と話をして下さった。
返す言葉もなく、私も感情を入れずに「そうでしたか」と返事するので精一杯だった事を記憶している。
それは、初日に女川町を車で移動し実際に被災した町を目の当たりにしていたから余計に言葉がでなかったのかと思う。
私が見た光景は、高速道路は所々で地盤が沈み地割れを起こしていて、町にある標識はまるでスキージャンプのように傾いていた。
それは少し車で走るだけで当時の悲惨さが想像できるような非日常の光景だった。
私には廃炉にする大変さは説明のしようもないが、一つの災害によって生活が一変する怖さは多少なりとも学べたように思う。
実際に現場にいない状況にある場合、衝撃を受けるのは目にした瞬間が一番強烈で記憶にも刻まれるが、風評被害という言葉が飛び交ったようにその環境に身を置くと形を変えながら常に被害を受けるのかもしれない。
一家全員で住み慣れた自宅を出て、地元から離れて帰る場所がない状況で仕事を探さなければいけなかった状況というのは相当な苦労であっただろうと思う。
宮城の支援から帰り、埼玉で福祉用ベッドのレンタルをしていた時には被災者家族を受け入れた温泉施設に呼ばれることもあり、その環境を見てから聞いた感想にはまた違う意味でかける言葉がでなかった。
日々の支援を続ける中でも感じるが、同じ環境に身を置いても理解しえない、本人やご家族にしかわからない苦しみは多いと思う。
そんな中で、仕事として行う私の支援は果たしてどれだけの支えになれているのだろうかと考えることがある。
せめて、人の苦しみは経験している本人にしかわからないと理解した上で、私は私にできる可能な範囲での支援に注力し妥協しない事を忘れてはならないと学ぶ日々です。