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当事者と支援者の関係

当事者と支援者の関係

間傳介



私が福祉の仕事をしたきっかけは、電車で同じ職場に毎日通うのが嫌になり、求人誌を眺めていたら、徒歩20分の所に知的障害者施設があって、散歩や絵を描いたりする仕事だというので応募し面接に行くと、面接を受け持って頂いた当時の施設長に「あなたこれまでどんな風に生きてきましたか?」と問われ、問わず語りをしたところ採用されてた。ということが、履歴書的なきっかけだったと思います。
さて一方、入ったは良いが実際「私には向いていない」と離職するパターンも往々にして世の中にはあり得ることで、実際のところ私自身も、「あの人のよだれがかかるのを俺は耐えられるのか…」「この絶叫に慣れることってあんのかな」と内心躊躇する気持ちもなかったかと言えば嘘になります。
風来坊然とした私がなぜ、蓋を開ければ6年そこで働き、また現在、重度訪問介護を4年も続け、今後も特に辞める気がないのは、ひとえに、重度心身障害、知的障害、要介護の高齢者問わず、
「皆さんといる時間は、私にとって人間らしい時間だから」
だと感じています。
私は九州の山間部の農村の生まれで、共働きの両親のいない時間は祖父母が田畑を耕したり、牛を養ったりするのを見ながら遊び、特に小学校もそこそこしか通わなかった父方では、標準語がほとんど存在せず、まさに豚骨ラーメンの様な濃さの方言の中に、幼い私の知覚や道徳観、と言った人間形成がされていったのでした。
謂わば田舎の暮らしに適したOS(オペレーションシステム)を持った人間が、20代半ばで東京に出てきたところ、「この道で寝てはいけない」「『今度遊ぼうね』と言われたからといって、急にその人の家に行ってはいけない」などなど、関東の見えざるしきたりの中でなかなか四苦八苦したもので、字義通り受け取ってはならないのかどうなのかすらわからない、コミュニケーション不全に陥っていたと言えるでしょう。
さて、そんなうらぶれた私が知的障害者施設でいざ仕事をとなったとき、まず与えられた仕事は、「この方の横にいてください」という仕事でした。「何だろな」と思いつつ、とりあえず威圧感のないように挨拶して、キーボードを触っているその人の指を見ていたら、やおらその方がこちらを向き震える手を広げてひっしと私を抱きしめてくれたのです。
東京に来て似た言葉ではあるが自分の使い方と違う標準語に囲まれ、自分の言葉のみならず、その言葉が指し表す私の心情の奥底に食い込む無力感を覚えていた私にとって、その方の抱擁は、凍え萎れて諦め切るきっかけをどこか探していた私にもう一度生きてごらんというように、身体中の血管という血管に暖かさが駆け巡る想いだったこと、その熱さ、10年経った今でも感触が消えません。
こう言った思いが支援を続ける原動力になっているということは、現代において、ロートル、古臭い、プロレスで言うところのストロングスタイルなのかもしれません。 しかしながら、支援の現場やそれに類するところに身を置く人々は、多かれ少なかれ私と似たような思いで働いているのではないか思います。 また、その相手となる障害等々お持ちの方々の気持ちを代弁するのは、まことにおこがましく思うので、どう考えているだろうということは、「こうかもな」という勘は働きつつもこちらが断定するわけには行かないと考えています。またそれは障害があろうとなかろうと関係がないことで、他者に対して全てそうでなければ、支援の向上・深化、差別の溶解はもとより、支援以外の領域においても研究だとか向上というものはないだろうと思います。
果たして障害当事者と支援者との関係、といって、今現在私が考えるのは、 【「人間とは何だ」ということを一緒に考えるやや違う立ち位置の二人】
ということだと思っています。そうして一緒に考えていくことが、世の中を少しマシにしていくと全く真顔で言っています。

略歴
1981年、鹿児島県産まれ。 宇都宮大学教育学部国語科教育八年満期退学 「東京に行け」との高校の恩師の言葉を独自解釈し北関東に進学。 修辞学、哲学、文学、芸術、音楽、サブカルチャー等乱学。 効率、生産性ばかり喧伝する文化の痩せた世の中になった2008年ごろ、気づいた頃には相対的に無頼派となっており、覚悟し流れ流れて福祉業界に。 知的障害者支援、重度訪問介護、などに従事。 「能(よ)く生きる」ことを追求している。 友愛学園成人部職場会会長