昭和70年代新宿の暗がりで、真っ黒な床まで届く、まるであたりの暗がりと溶け合うような装いで、しわがれた声をして歌っていた浅川マキという歌手がいる(死亡届は出されたが、忘れ去られるまでは死なない)。
彼女のレパートリーの中に、ブルース・スプリングスティーンの唄を彼女が訳して唄った『それはスポットライトではない』という曲がある。
引用は避けるが、簡単に言えば、「どの他の光でもなく、あんたの目に昔宿っていた光だけが私を震わせたんだよ」という歌である。
私はこの「光」に出会ったことがあると思っている。
かつて私は放蕩息子を絵で描いたような学生時代を送っていた時分、学校そこそこ真面目に放蕩せねばと音楽に没頭していた。自分で演奏するために他の誰かで済むようなものを作りたくないから先ずは先達を知ろうと古今東西を問わず手当たり次第、勘だけを頼りに財布の許す限り買い漁り聴き漁った。レコードやCDや本で、六畳一間がすり鉢状になった。
何でもそうだが量をこなすとどうしても目利きになる。謙遜でも傲慢でもなく自分の“分”というものが分かってくる。こういうのが好きで、こういうことでくつろぐ、こういう興奮が好きだ、こういう怒りがある、こういうことがしたい、そういうことを人に、「お前はこうだ」と言われても鵜呑みにせずに自分で確かめてきた。その中でつかんだ自分で確かめる習慣は、私の人生訓だ。
その確かめの繰り返しの先に見えてきたことがある。
音楽を聴いて、自分はその音楽家の「人」を見ていた。ということだ。そしてどうも自分が好きになる音楽家を並べてみても、音楽的ジャンルの区分けでは一向に統一感が出なかった。ビートルズは好きだったが取り分け好きだったのはリンゴ・スター、大阪の鉄工屋のバンド渚にて、内山田洋とクールファイブの次はフリージャズの雄オーネット・コールマン、友川カズキに観世流のお能の録音…(、紙幅があればあと40人は挙げたいがここで止め置く)。
無頼の暴れん坊であれば好きかと言えばそれだけではない、優しさが優しすぎて正確な麻薬のようになったのも好きだ、だけどそれだけではない、と、ぐるんぐるんにもう10年あたり考えた頃、ふと「輝きだ」と思った。その人の輝き、音楽家の。適当に運良く当てられたスポットライトではなく、銀紙に包まれて反射しているようなものではなく、その音楽家が「生きる」と決めた覚悟のような、周りが何と言おうとそれは揺るがせにならないとねじれようがすり潰されようが消えない光。感情や幾多のことばことば、ことばの奥から確かに「その人」という光が漏れる。これは簡単に「一人一人個性があるよね」という安易な逃げの言い換えでない、その人間全体を貫くような、(大袈裟に言えばと加えたいが、確かにそうだからいうが宇宙が出来た時から途切れずにやってきたエネルギーの一つの現れとして、時間と世代を48億年貫ぬくような)光だ。
その光を、望む方向から見ることが出来た時、誠実だ、正義だ、慈愛だ、と言い、思わぬところから照射されれば、狂気だ、怒りだ、暴力だ、というのではないか。言葉を慌ててつけて自分を落ち着けているのだが、そのどれも十分ではない。
実はその光は音楽家だとか芸術家だとか、特殊な人にだけあるのではない。強弱や隠したり晒したりという程度の差はありながら、私が出会ったどの人もそうであったように恐らく、どの人にもある光なのだと確信している。
誰にでもあるが、その強弱となると、人によって大きく差があり、その光の強める、何やら傾向めいたものがあるように感じられる。 それは、「自分の選択をどこまでも活き活きと貫く」という姿勢ではないかと私は見ている。
私が訪問介護で出会った人達、つまり家で過ごすみなさんは、病気だけを指して人を矮小化する「患者」という名付けを拒否し、自宅で母として、息子として、または誰かの友達として、会社員として、映画好きとして、おしゃれが好きな人間として、馬鹿笑いをする人として、無礼に対して怒る人として、森昌子を好きな人として、窓の外の季節を味わう人として、ギイっといちいち床が鳴る家に住む人として、「私は私の生活を人生を手放さない。病気は一つの私の側面に過ぎない、私は私として人生を味わうことにしたよ」と覚悟を決めている人達。ALSだろうと筋ジストロフィーだろうと、気管切開していようと目の動きが小さくなって文字盤が使いにくかろうと、「俺は、私は、ここに居るでしょ」と彼らは私を迎える。
「家に他人が上がりこむ」ということは、それが親しい友人だろうと、公的なサービスだろうと、自分や家族の時間が何かの制約を受けざるを得ないという点では変わりはない。二人以上で社会的気遣いは発生する。その訪れる誰にも、彼らは「私は私だ」と身をもって告げる。「否応無しにそうせざるを得ないのよ」と仰るかもそれない。しかし、その選択をし続けている姿勢、がそこにあること、ある種の無防備さがそれを感じさせるのかもしれない。しかしその無防備さは、「私はこうやって生きる」という覚悟の気高さの副産物に過ぎない。
そして時間が来て私がお宅を後にするときも、「私は、俺は、ここに居るからね」と確かな存在感をもって、誰に預けることなく自分の生を送っているその部屋に、彼らから発される光が満ちるようだ。
そしてその光には、まだ名前がない
略歴
1981年、鹿児島県産まれ。 宇都宮大学教育学部国語科教育八年満期退学 「東京に行け」との高校の恩師の言葉を独自解釈し北関東に進学。 修辞学、哲学、文学、芸術、音楽、サブカルチャー等乱学。 効率、生産性ばかり喧伝する文化の痩せた世の中になった2008年ごろ、気づいた頃には相対的に無頼派となっており、覚悟し流れ流れて福祉業界に。 知的障害者支援、重度訪問介護、などに従事。 「能(よ)く生きる」ことを追求している。 友愛学園成人部職場会会長
彼女のレパートリーの中に、ブルース・スプリングスティーンの唄を彼女が訳して唄った『それはスポットライトではない』という曲がある。
引用は避けるが、簡単に言えば、「どの他の光でもなく、あんたの目に昔宿っていた光だけが私を震わせたんだよ」という歌である。
私はこの「光」に出会ったことがあると思っている。
かつて私は放蕩息子を絵で描いたような学生時代を送っていた時分、学校そこそこ真面目に放蕩せねばと音楽に没頭していた。自分で演奏するために他の誰かで済むようなものを作りたくないから先ずは先達を知ろうと古今東西を問わず手当たり次第、勘だけを頼りに財布の許す限り買い漁り聴き漁った。レコードやCDや本で、六畳一間がすり鉢状になった。
何でもそうだが量をこなすとどうしても目利きになる。謙遜でも傲慢でもなく自分の“分”というものが分かってくる。こういうのが好きで、こういうことでくつろぐ、こういう興奮が好きだ、こういう怒りがある、こういうことがしたい、そういうことを人に、「お前はこうだ」と言われても鵜呑みにせずに自分で確かめてきた。その中でつかんだ自分で確かめる習慣は、私の人生訓だ。
その確かめの繰り返しの先に見えてきたことがある。
音楽を聴いて、自分はその音楽家の「人」を見ていた。ということだ。そしてどうも自分が好きになる音楽家を並べてみても、音楽的ジャンルの区分けでは一向に統一感が出なかった。ビートルズは好きだったが取り分け好きだったのはリンゴ・スター、大阪の鉄工屋のバンド渚にて、内山田洋とクールファイブの次はフリージャズの雄オーネット・コールマン、友川カズキに観世流のお能の録音…(、紙幅があればあと40人は挙げたいがここで止め置く)。
無頼の暴れん坊であれば好きかと言えばそれだけではない、優しさが優しすぎて正確な麻薬のようになったのも好きだ、だけどそれだけではない、と、ぐるんぐるんにもう10年あたり考えた頃、ふと「輝きだ」と思った。その人の輝き、音楽家の。適当に運良く当てられたスポットライトではなく、銀紙に包まれて反射しているようなものではなく、その音楽家が「生きる」と決めた覚悟のような、周りが何と言おうとそれは揺るがせにならないとねじれようがすり潰されようが消えない光。感情や幾多のことばことば、ことばの奥から確かに「その人」という光が漏れる。これは簡単に「一人一人個性があるよね」という安易な逃げの言い換えでない、その人間全体を貫くような、(大袈裟に言えばと加えたいが、確かにそうだからいうが宇宙が出来た時から途切れずにやってきたエネルギーの一つの現れとして、時間と世代を48億年貫ぬくような)光だ。
その光を、望む方向から見ることが出来た時、誠実だ、正義だ、慈愛だ、と言い、思わぬところから照射されれば、狂気だ、怒りだ、暴力だ、というのではないか。言葉を慌ててつけて自分を落ち着けているのだが、そのどれも十分ではない。
実はその光は音楽家だとか芸術家だとか、特殊な人にだけあるのではない。強弱や隠したり晒したりという程度の差はありながら、私が出会ったどの人もそうであったように恐らく、どの人にもある光なのだと確信している。
誰にでもあるが、その強弱となると、人によって大きく差があり、その光の強める、何やら傾向めいたものがあるように感じられる。 それは、「自分の選択をどこまでも活き活きと貫く」という姿勢ではないかと私は見ている。
私が訪問介護で出会った人達、つまり家で過ごすみなさんは、病気だけを指して人を矮小化する「患者」という名付けを拒否し、自宅で母として、息子として、または誰かの友達として、会社員として、映画好きとして、おしゃれが好きな人間として、馬鹿笑いをする人として、無礼に対して怒る人として、森昌子を好きな人として、窓の外の季節を味わう人として、ギイっといちいち床が鳴る家に住む人として、「私は私の生活を人生を手放さない。病気は一つの私の側面に過ぎない、私は私として人生を味わうことにしたよ」と覚悟を決めている人達。ALSだろうと筋ジストロフィーだろうと、気管切開していようと目の動きが小さくなって文字盤が使いにくかろうと、「俺は、私は、ここに居るでしょ」と彼らは私を迎える。
「家に他人が上がりこむ」ということは、それが親しい友人だろうと、公的なサービスだろうと、自分や家族の時間が何かの制約を受けざるを得ないという点では変わりはない。二人以上で社会的気遣いは発生する。その訪れる誰にも、彼らは「私は私だ」と身をもって告げる。「否応無しにそうせざるを得ないのよ」と仰るかもそれない。しかし、その選択をし続けている姿勢、がそこにあること、ある種の無防備さがそれを感じさせるのかもしれない。しかしその無防備さは、「私はこうやって生きる」という覚悟の気高さの副産物に過ぎない。
そして時間が来て私がお宅を後にするときも、「私は、俺は、ここに居るからね」と確かな存在感をもって、誰に預けることなく自分の生を送っているその部屋に、彼らから発される光が満ちるようだ。
そしてその光には、まだ名前がない
略歴
1981年、鹿児島県産まれ。 宇都宮大学教育学部国語科教育八年満期退学 「東京に行け」との高校の恩師の言葉を独自解釈し北関東に進学。 修辞学、哲学、文学、芸術、音楽、サブカルチャー等乱学。 効率、生産性ばかり喧伝する文化の痩せた世の中になった2008年ごろ、気づいた頃には相対的に無頼派となっており、覚悟し流れ流れて福祉業界に。 知的障害者支援、重度訪問介護、などに従事。 「能(よ)く生きる」ことを追求している。 友愛学園成人部職場会会長