「今日も来てくれてありがとね。大変じゃない?少し休んで始めて良いですよ。」
この挨拶から始まる介護保険の訪問…おじいさん、おばあさん達。
どこのお宅へ行くも気を遣ってもらえます。
私がいつも笑顔で居られるのも、訪問するおじいさん、おばあさんが元気で居てくれるからです。
この間もお仕事をしながら話した事があった。
「何でこの仕事を選んだんですか?」
私たち介護の仕事をしているとよく質問である。
みんなそれぞれ、家庭や生活、貯金の為などいろいろ理由はあると思う。
私はとは言うと平凡すぎるのですが…
「人が大好きだからです。特に赤ちゃんとオジィ、オバァが好き。」と話します。
赤ちゃんは別で、楽しい事があるのでまたこの機会に話したいと思う。
沖縄生まれ、育ちの私は「オジィ、オバァ」は横つながりの近所付き合いで…
みんなの「オジィ、オバァ」でもあるのだ。
学生の頃は親戚でもない近所のオジィ、オバァに「今日の帰りは遅いね。どこ行ってたの?もしかして彼氏できたの?」と自分の家族よりもプライベートに踏み込んで話してくるくらいの仲の良さだ(笑)
部活で悔しくて落ち込んで帰る時も励ましてくれる。近所のオジィ、オバァ。
私のオバァは琉球舞踊の師範だった。
家庭の事情が少しばかり複雑なのだが、それがきっかけでオバァと住み始めた。
毎日夜は琉球舞踊曲が流れているのを聴きながら寝る、子守唄代わりだった。
眠れない夜は、生徒さんと混じって後ろから見て覚えていった。
そしたらオバァはとても喜んでくれて、それ以降生徒さんと一緒に琉舞を習った。
この事がきっかけで極度の人見知りも緩和されたのを覚えている。
そのオバァが認知症になった時は辛かった。
私の名前も出てこなかったのだ。
それこそ違う名前で呼ばれてたりした。
しかも方言でしか話さなくなってしまったのだ。
でも琉舞をしてて近所のオジィ、オバァとの付き合いがあったから、方言がまだ解る方だったのでたくさん思い出話を聞く事ができた。
「芸は身を助ける」って言う言葉があるけど…
私は芸から学んだ方言でオバァとの繋がりを切られずに済んだのだ。
オバァにはとても感謝している。オバァが亡くなった時は辛くて、辛くて仕事ができなかったほどだ。
だけど近所のオジィ、オバァが毎日話しかけたりお茶とサーターを出してくれて一緒に話しているうちにだんだんと気持ちが楽になってきた。
沖縄のオジィ、オバァは言ってくれていた。
『イチャリバチョーディ』
ウチナーグチで『一度あったらみんな兄弟』という意味。何かあれば周りに助けを求めなさい。日頃から周りには親切にしなさいと習ってきたのだ。
その事もあり、私は普段から困ってそうな人には声をかけてしまう。沖縄では普通の事だったから。
関東へ引っ越してきても同じだ。変わらない。
私は駅のホームでも声をかけられたり、声かけたりしても平気なタイプ。
この間はバギーの車輪が道の穴にハマっていて困ってるおばあさんに声かけてバギーを元に戻したりした。
「ごめんなさいね。助かりました」と困ったような笑顔でお礼を言うおばあさん。
「え?!これだけで謝るの?大丈夫。私もいつかおばあさんに助けてもらうかもしれませんから、お互い様ですね」と笑って返しちゃいました。
「あら、私が助けられる事ないのに、ありがとうございます」と最後は笑顔で話してくれました。
やっぱりおばあさんは笑顔が1番可愛い。人に助けられても、謝るのではなく笑顔で過ごしてほしいなと強く感じた。
そんなこんな思いをしながら私は、自転車でいろんなお宅を訪問して回っている。
その笑顔を見て元気を貰うために毎回頑張れています。
「今日も元気でいてくれてありがとう。また、楽しい思い出のお話を聞かせてくださいね。」
と伝えられますように。