利用者・加藤拓の経験”知”

利用者・加藤拓の経験”知”

加藤拓




第4回 利用者とヘルパーのコミュニケーション(後編) ~真に共有すべきこと~

私が子どもの頃、通常なら1話完結の番組が、まれに「次回に続く」という展開だった場合、続きが気になってとてもイライラしたものだった。 最近の番組でも「いいところ」でのCMは視聴者にチャンネルを変えさせない常套手段になっており、食傷気味なのではないだろうか。しかし、いざ私がコラムの連載をさせていただくことになってみると、そうは言っていられないことに気づいた。 コミュニケーションは壮大なテーマで、誌面の都合上、とても一回では書ききれなかったのだ。やはり、何事も実際にやってみて初めてわかることがあるのだと、身にしみて感じている。

前回は、利用者とヘルパーの間のコミュニケーションとは「利用者の日常を支えるケアを安全でスムーズに行うために必要な情報を共有すること」なのではないかと書いた。だが、ケアを安全でスムーズに行うことができればそれだけで良いのだろうか。

利用者がケアを依頼するのは、ただ日常生活をサポートしてもらうためだけではなく、可能な範囲で自分の思い描く生活を続けるためでもある。 私は日々の生活で、「外出して人とのつながりを絶やさず、周囲の人や社会のために活動すること」と、「筋緊張や不随意運動以外の感覚等は普通なことを活かすこと」を大切にしている。 今回の写真は地元の小学校で総合の時間の講師をしている様子を写したものだ。これに加えて介護研修の講師などはまさに大切にしていることの前者にあたる。 今でこそ、私のケアにケアマネジャーや多くの事業所とヘルパーが携わってくれるようになり、不自由なく外での活動ができているが、そうなってきたのは最近の5年ほどなのだ。 今から10年ほど前、限られた支給時間やシフトの中でもなんとか外出の時間を増やせないかと、ある事業所のサービス提供責任者に相談したことがあった。 「移動は電動車椅子に乗れば自力でできるが、トイレが心配だから外出に付き添ってほしい」と伝えると、「トイレが心配ということなら、オムツをするという方法もありますよ」という答えが返ってきたのだ。 今の私ならば、尿意や便意がきちんとあるのにオムツをするのは不本意であることや、自分にできる工夫もあることなど、その提案に賛同できず他の方法を探してほしい旨をきちんと伝えるだろう。 だが、当時の私はオムツという提案をされたことへの拒否感に囚われ、それ以上話し合う意欲をなくしてしまった。今思えばこれは好ましくないふるまいだったと、反省している。

利用者と事業者の立場は違うのだから、意見がすれ違うことがあるのは当然だ。利用者それぞれに大切にしていることがあり、ヘルパーや事業者側にも立場や大切にしていることがあるだろう。 利用者の思い描く生活をともにつくるためには、互いの価値観を理解し、時には異なる意見をぶつけ合って「落とし所」を探る努力が必要なのである。共通の目的を見失わなければ、不毛な対立を生むこともないだろう。つまり、利用者とのヘルパーのコミュニケーションとは

「利用者の思い描く日常をともにつくるために、互いの大切にしていることなど様々なことを共有し、一致できる点を模索するプロセス」

と言えるのではないだろうか。トライ&エラーを繰り返しながら利用者も含む皆で汗をかくことによって、ケアは本当にその利用者に合った、血の通ったあたたかいものになっていく。 和を以て尊しとなすのは日本人の美徳だが、異なる意見をぶつけ合うごとから逃げていては、ケアはより良いものになっていかないのである。

最近、介護の世界にもIT技術の導入が進みつつあり、ケアプラン作成を補助するAIの開発や導入実験まで行われていると聞いた。過去の膨大な事例を学習させたならば、そのAIが導き出すケアプランや内容は、とても“合理的”なのだろう。 しかし、それに頼りきりになってはいけないと思っている。AIが導き出したケア内容を利用者に合った形にアレンジしていくのは、人と人とのコミュニケーションであることに変わりはなく、価値観を持った人間同士だからこそできることだからである。 たとえAIが導き出したものと違っていても、皆でコミュニケーションをして合意できたことであれば、それはその時点での1つの良案なのだ。そして、時間の経過とともに利用者の状態や周囲の環境が変われば、また皆でコミュニケーションをしながら調整していかなければならない。 また、もしも自分の希望が100%通らなかったとしても、とことん話し合って皆で決めたというプロセスを経ることによって、人はその決定を受け入れることができるようになるものだ。 私は、コミュニケーションとは実に地道で泥臭いプロセスだと感じる。しかし、だからこそ人の心を動かすことができるし、このプロセスには人が人を支えることの価値が凝縮されていると思っている。

「コミュニケーション」は現代社会で本当に良く見聞きする言葉だ。本当にきちんとした意味で使われているのだろうかという問題意識は以前からあったが、コラム執筆を通して利用者とヘルパーのコミュニケーションのあり方を突き詰めていくと、人が人のケアを行い支えることの価値にまでたどり着くような奥深いものであるとわかった。ケアは利用者の日々の生活を支えるものだ。そしてその日々の積み重ねが、利用者の人生を形づくる。真に共有すべきことは、利用者の「生き方」なのである。そのためには、利用者は自らの望む生き方を、ヘルパーや事業者は自分達にできることを、それぞれが伝えられるようにならなければならない。利用者とヘルパーのコミュニケーションは、双方の不断の努力によって成り立つものだということを、自戒を込めて書き、前回から続くコミュニケーションについての私なりの考察は、ひとまず終わりにしようと思う。

加藤拓(かとう たく)
1983年生まれ。生まれつき脳性麻痺による身体障害者で、現在は毎日ヘルパーのケアを受けながら、「皆で考えてつくる医療と介護」をモットーに、講演活動やワークショップの開催を続けている。2020年7月からはヘルパー向けの研修講師も担当している。
趣味はゲームと鉄道に乗ること。


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