第9回 私にとって障害とは
以前、電車内での他の乗客とのトラブルについてヘルパーと
(加藤) 「幸い、自分は周囲の人に何か言われたとかは、ないなぁ」という会話をしたことを覚えている。私は自分の見た目を「強そう」と思ったことはなかったからだ。このように、周囲の人の何気ない一言から意識していなかった自分の一面に気付かされた経験がある人は多いのではないだろうか。自分が考える自分と他者から見た自分には得てしてギャップがあるものだ。前回のコラムでは、障害や病気の呼称や表記にこだわらず、相手を理解する姿勢こそ大切なのではないかと書いた。今回は、私が自分自身の体や障害をどう捉えているかを書いてみたい。
(ヘルパー)「拓さん、強そうですからね」
(加藤) 「強そう!?」
(ヘルパー)「上半身大きいし、声も大きいし、車椅子も大きいし」
(加藤) 「(苦笑)」
私が物心ついて初めての記憶は、家の床に寝転んでおもちゃで遊んでいるシーンだ。その頃の私は、障害児専門病院にある通園科(障害児の幼稚園)に通っていて、様々な障害のある友人と過ごしていた。会話ができる子もできない子も、歩ける子も歩けない子もいた。私が就学年齢に近づき進路で迷った両親は、当時の主治医の「拓君はもっと広い世界を目指した方がいい、養護学校ではもったいない」という言葉に背中を押され、障害のない子たちとできるだけ同じ経験をさせようと決心してくれた。普通小学校への進学を見据え、私をいわゆる健常児に慣れさせるため、1年早く通園科を卒園させ障害のない子たちが通う保育園に預けたのだ。母と離れるのが不安で泣いていたという恥ずかしい思い出はあるものの、友人達は仲良くしてくれたゆえ、疎外感を感じることも自分の体に疑問を持つこともなかった。保育士の方々の努力と工夫もあったことと思う。
小学校に入ってからのことは以前にも少し書いたが、両親の支えに加えて本当に友人や先生方に恵まれたと思っている。車椅子で移動しやすいように、半開きの扉を全開にしたり飛び出している椅子を机にしまったりということを、友人達は自然にしてくれるようになった。グランドで一緒に走り回ることはできなくても、休み時間に室内で遊んでくれたり放課後には私の家でゲームをして遊んでくれたりした。先生方は日々の授業だけでなく、学校行事や受験の際にはいつも相談に乗ってくださり、私にも可能な方法を一緒に考えてくださったのだ。おかげで私は、小学校から大学院までずっと、自分が障害者であることを強く意識する必要がないくらい、楽しく過ごすことができたのである。このまま障害のない友人達と“同じ道”を遅れずに進んでいけると、無邪気にそう思っていた。
しかし、大学院生のときに就職活動という巨大な壁にぶつかったのだ。私は教師になりたかったが、そのためにはフルタイムで働けると示す必要があると考え、障害者向けの合同説明会に参加してIT企業などの面接を受けた。会場に入ると、まわりは障害のある学生ばかりのはずなのに皆スタスタと歩いていることに衝撃を受けた。車椅子に乗っている人は数えるほどで、電動車椅子を使っているのは見渡す限り、私だけだった。障害といっても様々ゆえ今考えれば不思議はないが、当時の私には想定外の事態だったのである。障害が軽そうな学生とにこやかに話していた面接官が、私と話すうちに表情を曇らせていくのを見て、一般的な就職をするのに私の体は障害が重すぎるのだと思い知った。やはり私は障害者なのだ、友人達とは違うのだ、と。
障害のない友人と「同じ」道を遅れずに進むことが、頑張ってくれた両親に報いるためにできる唯一のことで、それができている自分に価値があると、当時の私は考えていた。障害のない“普通の人”のように生きたいという思いも強かったのだ。悩んでいた私に母は一言だけ、「しょうがないじゃない」と言ったのである。もっと、言いたいことはあっただろう。でもこの一言で、私は救われた。障害のない友人と同じでなくても、自分なりのやり方で社会のために何かをできればいいと思えたからだ。大学院修了後、大学への通学のボランティアの調整をお願いしていた社会福祉協議会の職員の方に、自分にもできることはないかと相談した。すると、小学校で車椅子利用者の話を聞く時間があり、先輩講師が近いうちに話をするから見学に来てはどうかと提案され、二つ返事で行くと答えた。こうして私は、自分の学びや経験を社会に還元する活動を始めたのである。障害のある体と折り合いをつけながら、時にそれを糧にして自分なりの道を歩み始めた瞬間だった。
私の体は、実に不便なものだ。障害なんて、無い方がいいに決まっている。自分の体を呪うことももちろんあった。それでも、私は優しく理解のある人々に囲まれて育ち、今も素敵な仲間やヘルパーに囲まれて生きている。ヘルパーと何気ないやりとりをしたり、仲間と楽しく笑い合っていたりすると、この体で歩む人生もそれほど悪くはないと思える。誰の人生にも、苦しいことも楽しいこともある。背負っていかなければいけないこともあるだろう。私にとって障害は、その1つだと思っている。それ以上でも以下でもない。悪くないと思える人生を歩めている私は、きっと幸せ者だ。これからも、自分にできる形で経験と学びを社会に還元していきたい。やりたいことも感じてみたい幸せも、まだまだある。引き続き、ヘルパーには力を貸してほしいと思っている。
加藤拓(かとう たく)
1983年生まれ。生まれつき脳性麻痺による身体障害者で、現在は毎日ヘルパーのケアを受けながら、「皆で考えてつくる医療と介護」をモットーに、講演活動やワークショップの開催を続けている。2020年7月からはヘルパー向けの研修講師も担当している。 趣味はゲームと鉄道に乗ること。