『普通ってな〜に①』

『普通ってな〜に①』

間傳介



普通、といって、何から何まで普通であるという人は存在しないのは、これを読む皆さんおひとりおひとりが、ご自身と何かとの差を感じながら日々を送っておられるご実感のあることですので、改めていうまでもありません。

しかし、「普通〇〇するでしょ!」などという言葉遣いがなかなか消え去らないのはどういうわけか。考えてみましょう。

普通を割り出すために、普通でないものというものを挙げていき、大まかな輪郭をとることにしましょう。「特殊」「異常」「異質」「低い」など、「普通でない」状態を外してみます。四角い材木から例えば球体を彫るように。どんどん球に向かって掘り進めます。

どんどん掘り進めるとある程度の球が出来上がります。しかしここで問題が発生します。

球体を撫でているとどうも滑らかでない。遠くから眺めれば球に近づいているけれど、触ってみるとどうもノミや鋸の跡がざらついています。先ずはさっきより小さいノミで削ることとします。全ての面を削り出し、後はやすりをかければ球になるだろうと目算がつき、やすりをかけます。だいぶツルツルの球体になりました。満足いく出来です。

この球を撫で回しながら幾月重ねておりますと、季節が移ろって参ります。
ある日お客があって、この球を見せ、丸さを誇って手渡したところ、

お客は「君、いま君はこれを球だと言うね、君が作り終えた冬は球だったかもしれないが、夏になったいま、水気を吸ったのか少し歪んで来たようだよ」と言います。彼はハッとします。

球をずっと撫で回していた彼は、もしかしたらそのことに本当は、気付いていたのかもしれません。しかし自分が掘って削って作った球に満足感と達成感、そして自分が掘り上げた球に、日々撫でているうち、愛着を持ち始めたのかもしれません。

それは自己肯定感です。

私たちはポンとこの世に産まれて幾星霜、いろいろなことが身の回り、体の中で起きます。そして、いわばその濁流、怒涛というべき現実の、高速連射の中にその精神を置きます。その高速連射、まさに光の速さでやってくる現実に、日に2万回思考することで対応しています。

アインシュタインの言葉に
「常識とは、二十歳になるまでに身につけた偏見である」

というものがあります。
虐待されて育った人物が、その子供を虐待する可能性が高いと言われるのは、「親=子供を虐待する人」という知識、見識、イメージしか持ち得ないからであり、良かれ悪しかれ私たちは誰かから何かを受け継いでおり、幼い頃の養育環境は、その根源的な要素を構成するものとみてよろしいでしょう。

褒められて育った子供は屈託がないと言います。屈託のない人を、妬む人というのは居ます。

あなたは、先ほどの玉を撫でていた男はこれからどうすると思いますか?

今あなたがの頭に思い浮かんだイメージはあなた自身ではないですか?


略歴
1981年、鹿児島県産まれ。
宇都宮大学教育学部国語科教育八年満期退学
「東京に行け」との高校の恩師の言葉を独自解釈し北関東に進学。
修辞学、哲学、文学、芸術、音楽、サブカルチャー等乱学。
効率、生産性ばかり喧伝する文化の痩せた世の中になった2008年ごろ、気づいた頃には相対的に無頼派となっており、覚悟し流れ流れて福祉業界に。
知的障害者支援、重度訪問介護、などに従事。
「能(よ)く生きる」ことを追求している。
友愛学園成人部職場会会長

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