人生マシマシ

丸山 大輔


『人生マシマシ』

それは、ある日突然の出来事だった。
虫の知らせと言うやつでしょうか。
その日たまたま実家に帰り、たまたま終電を逃し、たまたま実家に残り深夜まで起きていたのだ。
『ダイスケ、ダイスケ』
今でもその声が聞こえそうで怖くなる瞬間がある。
その声の先には、母親がひっくり返り、私の名前を叫んでいたのだ。
母親は呂律が回らず見た事の無い表情をしていた。
人間というのは、目の前に経験した事の無い出来事や恐怖に出会うと、驚く程に冷静だ。
直ぐに部屋の父を呼び救急車をよんだ。
その後は逆に驚くほど記憶がないのだ。
どうやって病院から帰り布団に入ったのかを覚えいない。
母の病名は『脳幹出血』だった。
初めて聞く病名で医師が何を伝えているのかなんて理解不能ではあるが、大変、というのは何となく分かった。
その瞬間『母親の介護を俺がしよう』と自然と思えた。
今まで親孝行らしい事を1つもやって来なかった。
もしかしたらこれが最後のチャンスかもしれないと思ったのだ。
直ぐに勤めていたラーメン屋を退職し、ホームヘルパー2級を取り介護施設に就職した。
初日で『君は見た目がレクっぽいから、レク係ね』
いま思えばルッキズムだのパワハラだの思えそうな発言だが、そこで鍛えられたんだと思う。
そこからナンヤカンヤデで3年が過ぎ、母親もリハビリのかいもあってか幸いに『以前の』とは言えないが穏やかな日常を取り戻し父も無事定年を迎え安心出来る環境が作られたので、『母親の介護』が目的だったのだが無事お役御免となった事もあり、またラーメン業界へ戻ったのである。

そこで私は店長を勤める事になるのだが、これがお店の立ち上げという事もあり、半年間は週1の休みに着替えを取りに帰る、それ意外は厨房で身体を洗い床に段ボールを敷いて寝る、激務環境であったのだ 朝起きると鼻血を流している事もあった。
最初は安定していなかった売上も毎月売り上げを更新する店にもなった。
テレビ局が近くにあった事もあり芸能人も来てくれる様にもなった。
『よし、これからだ』と思った矢先に『コロナ』である。
その後、世の中はどうなったのかは説明するまでもなく。
そして、お店の閉店
人生で初めて心が折れる、という経験をした。
もう全てに疲れてしまった私は大阪の西成に行った。
1泊1000円の宿に1年近く住む事になった。
いや、なったんではなく全て置いて何も考えたくなかったんだと思う。
路上や公園にメシ屋や銭湯等で声をかけてくれるオッチャン、オバチャン、お兄さんお姉さん、人種年齢関係無くみんな優しかった。
『よし、そろそろ働こう』そして東京へまた戻る事になった。
『ニンニクいれますか?』というセリフで有名な店で働く事になった。
とても刺激的な職場で日々満足していた。
そんなある日『バアちゃん』が入院した。
2世帯住宅だった私はバアちゃん子だった。
どんなに病気が痛くても絶対に痛いと言わない、絶対に救急車を呼ぶな、と言って何度も救急車を拒否していたバアちゃんが『救急車よぶよ』て言葉に初めて頷いたらしい。
それから数日後、バアちゃんは亡くなった。
まだコロナ化という事もあり最期の瞬間は立ち会えなかった。
『ごめんな、バアちゃん』その気持ちがまた私をこの介護業界へ戻す事になったのだ。
ラーメン屋の仲間は独立して成功中である。
たまに会うと腕には高そうな時計してるし、それを見て素直に良かった、て思えているから
きっと、私は介護が好きなんだと思う。
やっと、スタート地点に立てた気がする。
珍文、駄文ですが最後までお読み頂き有り難う御座いました。


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