利用者・加藤拓の経験”知”

加藤 拓


第34回 ハラスメントという言葉が覆い隠すもの

テレビのバラエティ番組やワイドショーで「人気のラーメン屋特集」なる企画を、本当に頻繁に目にする。私もラーメンは嫌いではないが、滅多に食べる機会がない。というのも、仲間やヘルパーと店に行った場合、同時に頼めば私が食べさせてもらう間に麺が伸びてしまうし、そうかと言って注文のタイミングをずらせば店や他の客に迷惑がかかってしまうからだ。どちらにしても心苦しく、ハードルが高いゆえ、家でカップラーメンを自分の皿にうつしながら食べるくらいが、私には気楽でいいのである。

ラーメンといえば数年前、「ヌーハラ(ヌードルハラスメント)」という言葉を初めて聞いた。麺をすすって食べる音が不快ということらしい。では、ラーメンやそばをどうやって食べるのかと言いたくなるが、それよりも気になるのはスメハラ(体臭やタバコ、香水など)やカスハラ(客からの迷惑行為)、ペイハラ(患者による迷惑行為)など、「○○ハラ」という言葉が乱立していることだ。ハラスメントとは、「人に対する嫌がらせやいじめなどの迷惑行為」と定義されているが、今使われている「○○ハラ」という言葉が適当な表現なのか、また使われ方が適切であるのか、私は甚だ疑問なのである。

まず、今挙げたヌーハラやスメハラは、そもそも他人に嫌がらせをしようという意図がないことがほとんどであり、気にならない人にとっては迷惑行為でもいじめでもない。周囲への配慮が必要な場面はあるが、ハラスメントと称して社会的な対策を要するものだとは到底思えない。ただの個人の不快感である。

その一方で、セクハラやパワハラは社会的に広く認知され、あらゆる組織や団体で起こり得るゆえ社会的な対策が必要だと私も思う。立場や関係性を利用して無理を通すことはあってはならないからだ。
ただ、「苦痛を感じたらハラスメントだ」というあまりにも不明確な条件が含まれていることには疑問を抱かざるを得ない。相手にとって必要だが耳の痛い指摘をしただけでも、その相手が苦痛だと感じたらパワハラになってしまう可能性があるからだ。
現に私のケアに来るヘルパーからも「いわゆるZ世代にあたる同僚に少し強い指摘をしただけで『そんなのパワハラですよ』と騒がれて困っている。でも指摘をしないと自分達の仕事にも障るため放置もできない」という嘆き節を聞いた。これはセクハラにも当てはまる。相手の意に反する性的な言動が条件の1つにあるということは、ただコミュニケーションをとろうとしただけでも、性的な言動と見做されてセクハラになり得るということだ。
自分が相手の好みのタイプでなかった場合、さらにそのリスクは高まるとも言える。そんな曖昧なものを「防止する」ためにできることは、互いに接しないことしかない。

また、パワハラやセクハラは許されないことだという意識は広まっているため、そのような“被害”を受けたという話が持ち上がるだけで、“加害者”は非道徳的な人物というレッテルを貼られてしまう。
第三者が事実をきちんと確認した方が良いのではないかなどと主張すれば、ハラスメントを容認するのかと非難される恐れもある。これでは言った者勝ちになりかねないし、他の意図を持って“告発”される可能性もある。互いに深く関わることがリスクになるような環境が、生産的な仕事や活動に本当に資するのだろうか。

また、スタッフを長時間怒鳴りつけたり暴力をふるったりするカスハラやペイハラも最近ではよく耳にするが、これは歴とした違法行為である。もはやハラスメントの域を超えており、事件として考えるべきものだ。
学校現場でも、子どもたちの恐喝や暴行“事件”を「いじめ」と呼ぶことで教育の問題として扱い、教育業界が抱え込むことで警察の介入を最小限にとどめてきた。だが、結果としていじめはなくならず子どもたちのためにならない結末を迎える例は後を絶たない。今、スタッフを悩ませている度を超えた行為をハラスメントと呼んでいる限り、学校現場のいじめ問題と似たような構図が出来上がってしまう。毅然とした対応をすべきであり、業界内で抱え込む必要はないのだ。

このように、現在のハラスメントという言葉は個人の不快感を誇張したり、逆に違法行為を矮小化したりと、使えば使うほど問題解決から遠ざかる代物のように思えてならない。
そして、自分にとって不愉快な言動を糾弾してやめさせたり、その言動をする人物を排除したりするための武器として利用されてはいないだろうか。
もちろん、理不尽なことでも耐え忍ぶべきだとは思わない。しかし、価値観が多様化した今だからこそ、気の合う仲間との関係を保つこと以上に、気に入らない人物や物事とうまく向き合うことが求められているのだ。
何が不快と感じるのか、どうすれば互いに衝突せず必要なコミュニケーションができるのか、適度な距離を保てるのかということを、時間をかけてでも話し合って互いに汗をかくのが、大人の対応だろう。
そして、度を超えた行為には他の機関の力を借りつつ毅然と対応すればよい。決して近道ではないが、この努力をきちんと続ければ多くのトラブルを解決できるはずだ。それでも解決できないものこそ真のハラスメントであり、社会として取り組むべき課題である。

気入らない人物や物事を自身のまわりから遠ざけることを繰り返していれば、待っているのは孤立と孤独である。「○○ハラ」が氾濫する社会は、一億総中流ならぬ一億総孤立社会に向かって進んでいる。
昭和的な価値観だとお叱りを受けるかもしれないが、警鐘を鳴らす人間が1人くらいいてもいいだろう。世間で盛んに言われている「多様性の尊重」という考えのもと、私の意見も受け入れていただけると信じている。

加藤拓(かとう たく)
1983年生まれ。生まれつき脳性麻痺による身体障害者で、現在は毎日ヘルパーのケアを受けながら、「皆で考えてつくる医療と介護」をモットーに、講演活動やワークショップの開催を続けている。2020年7月からはヘルパー向けの研修講師も担当している。 趣味はゲームと鉄道に乗ること。

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