今在る自分にフォーカスしたから

田中春菜

「介護士だけはやめときや」と言っていたベテラン看護師の母は、介護士の大変さをわかってたからこその一言であり、親心でしょう。私はプー太郎人生にに終止符を打つため、”学校に通わなくても働きながら手に職を付けられるような職業”を探しはじめた。母は看護師、姉は歯科衛生士、と資格をもっているのがなんかかっこよかった。心配性な為将来困らないよう今出来ることをしておきたかった。看護師×、保育士×、作業療法士×…そして未経験から始められる介護に出会った。なんとなく福祉の分野に絞っていたのはキット福祉と御縁があるのだろう。

もうひとつ、自分の事を好きになりたかった。以前の私はどうしても周りの皆んなと比べてしまい、劣等感を抱いていた。まわりのこはなんだか仕事もプライベートもキラキラしている。きっと一生懸命お仕事してるからだろうなぁ。自分もそんなお仕事に出会いたいなぁ。もう自分から逃げたくない、もうこれ以上自分に絶望したくないと思い、理想の自分をおいかけるのではく、今在る自分にフォーカスすると目の前に「介護」がぽわんと出てきた。これならできるかも。一か八か、25歳、未経験で介護施設に飛び込んだ。

私は古い人の考え方やモノが好きだったりする。日本史や日本文学もそんなに詳しくないがとても好きだ。シンプルにかっこいいと感じる。おばあちゃんっこでもあった。おばあちゃんおじいちゃんが私の元気の源であった。会うと勇気が湧いてくる。高校生の時、まわりの子はお友達とカラオケやプリクラをとりにゲーセンにいっていた最中、私は電車やバスを乗り継いで大自然の中にある限界集落に住む祖母の茅葺屋根の家に遊びに行っては、素朴な暮らしとおばあちゃんの笑顔で元気をチャージしたものだ。

さて最初に就職したのが有料老人ホームだ。初日は認知症のおばあちゃんのそばにいるのが私の仕事だった。私はこの日おばあちゃんの話を聴いてひっそりと涙をした。それは感動なのか?どんな感情なのか未だにわからないが、自然と涙がほろほろ出てきたのだ。認知症だとわかっていたので、おばあちゃんの話を傾聴し”受け入れる”姿勢をとっていた。おばあちゃんの話はだんだん昔にさかのぼる。そして戦争時代の話をしてくれた。「認知症だから、話は半分流したらいいから」と先輩スタッフさんに対応を教えてもらっていたが、昔の戦争の話をしているときのおばあちゃんのその目やその言葉は今までの話とは違い、しっかりはっきりしていた。スイッチが切り替わり歯車が回りだした感じ。私をタイムスリップさせ次から次へとその情景を見せてくれるのだ。普段はよろよろとしか歩けないおばあちゃんだが、その時はその情景の中でしっかり2本の足で大地を踏んでいた。そしてあっという間に初日勤務が終わった。緊張で感情が色々混ざって、帰りの電車はどっと疲れがでた。と同時に介護を続けよう!と決心したのだった。そこからディサービスや特養等で経験を積んだ。

障害分野にかかわるきっかけとなったのは、とある島に暮らしていた時、一人の障害を持つ少女との出会いだった。その少女とひょんなことから始まった1対1でのケアでは、今までの施設介護では感じたことがない時間の流れや充実感を得ることができた。利用者、スタッフ共に「個人」を大切にした訪問介護という働き方にも魅了された。

施設介護と重度訪問介護併せてまだ5年弱ですが、なぜあの日から私は介護を続けているのか。もちろん感情労働であり体力勝負のこの世界は、簡単ではない。そんな中相手の笑顔を見れるとほっとするしうれしいし頑張っててよかったと救われる。しかしそれ以上に介護という仕事を通じて今までになかった気付きが得られた。行動(仕事)し、気付き、止まらずまた行動(仕事)の繰り返しで、気付きという種から葉が出来、根っこが生え、地上にも地下にも双方に伸び、地下どは栄養を蓄え、地上ではやがて花が咲く。お陰様で色んな花びら(春菜)を咲かすことが出来た。ただいま花畑を拡大中だ。晴れた日も雨の日もどちらも大事で必要。どんな空も好きになった。ここが私の輝ける場所だと知ったのです。あれほど反対していた母が今や一番の応援団長。母の喜びが私の喜び。ありがたや。
やればやるほど、まわりに感謝出来、自分にことが好きになっていく『介護』はまちがいなく、天職だと気づかされる毎日です。日々感謝。

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