【前回までのブルース】
初LIVEを終えて、まったくお客さんの心に響く演奏ができなかった「わたしの」。失意のどん底にいたが打ち上げで仲間から励まされ、細々とでもいいから活動を続けていくことに意味があることに気付く。同時に初LIVE を終えて運命的な何かを感じつつあった。社会や集団について検証する「わたしの」のはなし。
「わたしの」の初LIVE は町の小さな神社の境内にある神楽殿の前で行われました。その様子はブルース(2)でも紹介した通り鳴かず飛ばずといった感じだったのですが、それはさておき、私が気になったのはLIVE の場所についてです。そのはなしをしていきたいと思います。
私は特に過激な運命論者では決してないのですが、偶然に起きたような出来事に対しても必然を感じることがあります。縁と呼ばれるものはきっとあるんでしょうね。
「わたしの」のLIVE が神社の神楽殿の前から出発したことも、偶然のような必然のような、判然とはしないんだけれどどこか特別な意味を持っているように私には思えました。
私は里神楽や祭、年中行事といった土俗的なものに学生時代から関心があり、休みがあると地方の無形文化財に指定されたような(概ねひっそりと執り行われていることが多いのですが)伝統芸能、神楽、舞、儀礼などを見に行ったものです。なんとも暗い学生時代ですがそれはともかく………。
そのうちに祭や神楽について自分なりに考察し、気付いたことがありました。それは、
『祭とは地域社会や集団の結び付きを強め、豊かなものにするために先人たちの知恵によって発明されたものである』
ということです。この考えは「わたしの」のあり方の土台ともなっているものです。
「祭を模倣する」と私が表現するものです。
言い換えると「祭の原理」を使用することです。「祭の原理」とは何かというと「本当の目的をプロセスの中に巧妙に埋め込むこと」です。この辺りが非常に分かりづらい言葉遣いになってしまってすみません。例をあげて説明します。
例えば、祭には「御幸(みゆき)」というのがあります。祭の参加者が大勢で御輿を担いだり、山車を引いたりしながら町内を練り歩くというものです。
揃いの法被を身につけることもありますが、法被を来ていない人でも一緒に歩いて参加できるようなものです。
私のよく知る祭では大人が両手を広げても届くか届かないかくらいの巨大な木製の車輪がついた山車をみんなで引っ張ります。その山車の上では祭囃子が鳴り神楽が奉納されています。重量も相当あるのでみんなで引っ張ったってスローな速度なわけです。子どもや高齢者でも後ろからついて歩けるほどなのです。神社を出発して町内を回り半日くらいかけて戻ってきます。
この「御幸」の目的は神様をのせて町を練り歩くことで一年の平穏無事を祈ることであると説明されることがあります。しかし、本当の目的は先人たちによって巧妙に仕掛けられています。
「御幸」に参加してみると分かるのですが、普段は自転車や車で一瞬で通りすぎてしまう道をじっくり時間をかけて歩きます。すると町の地理はもちろんのこと、町のことがよーく見えてくるのです。
例えば「この家にはこの人が住んでるんだ」とか「この人はひとり暮らしなんだ」とか自然と分かってくるのです。また「この人たちが家族なんだ」とか「あの人とあの人は気軽に話せるんだ」とか、誰と誰がどういう関係でつながっているかがおおよそ見えてきたりします。参加者ひとりひとりの頭の中に半日かけて町の地理や関係図がなんとなく出来上がってくるわけです。隣に誰が住んでいるかも分からない地域と比べてどうでしょう。「御幸」は本来の目的である強固な地域作りの土台になる体験を参加者にもたらすのです。祭の目的がプロセスの中にあるというのはこのようなことを指します。
先人たちが意識的に目的を隠したのかは定かではありません。当初はみんなの共有事項としてあったものが時の経過とともに形の中に隠れていったのかもしれません。祭が形骸化してみえるのはそのような理由が一つにあるのかもしれません。
『祭は先人たちの発明』であることを書いてきました。しかし、今多くの地域で祭が廃れてきています。
それはなぜなのかというと、これまでの祭が農耕社会を基盤にして成り立ってきたものだからです。私が子どもの頃過ごした地域のお祭りは土日開催ではなく、古くからの習わしにちなんだ、古来の暦に沿った日に執り行われていました。ですので、平日に行われることもあったのですが、その日は学校がお休みになる子どもにとっては嬉しい日でした。農業に従事している人は合わせられるかもしれません。しかし、会社勤めの人は会社を休んで参加することが求められます。そこに農耕を基盤にして成り立った祭と現代人のギャップがまずあります。
また、話を里神楽に限局して言えば、舞のモチーフが土を耕す動きであったり苗を植える動きであったりするので昔は生活のなかに当たり前にあった動きですが、現代では馴染みの薄いものになっています。そしてテーマは「五穀豊穣」が多く、その願いもまた現代社会を生きる者の願いと重ならない部分も出てきました。
このように農耕を基盤にした祭は徐々に現代社会にフィットしなくなってきました。
祭によっては参加者が減少し、廃止になったものや規模を縮小したものが少なくありません。
しかし、廃れるものがある一方で、祭の数が減ったかというとそんなことはありません。みなさんの周囲を見回して見てください。「○○フェスタ」や「○○マルシェ」といった新しい形の祭が続々と生まれてきてはいませんか?今を生きる人々が自分たちの生活にあった新しい祭を創出しようとしているのです。
それは、人間の「地域社会」や「集団」をより豊かなものにしようという願いが昔も今も変わらない普遍的なものであるということの証拠なのかもしれません。
私はお祭り野郎といった目立った存在では決してなく、どちらかというと仄暗い日陰を選んで歩いてきたような人間なのですが、子どもの頃から近所の神社で執り行われる祭、縁日が大好きで、神楽のお囃子が遠くから聞こえてくると浮き足立ちふらふらとそちらに引かれて行ってしまうようなところがありました。
笛太鼓のお囃子と縁日の賑わい、遠い空と午後の光。子どもの頃に体験したものが今でも胸に残っていてノスタルジックな光景としていつでも思い返されるのです。
さて、農耕を基盤にした古い祭が現代的な新しい祭(仮にフェスタと呼びます)に変わっていくときに、祭が持っていた機能も新しい形へ変わりました。
例えば縁日における露店はフェスタにおいて飲食や物販のテント(市)に変わりました。子どもが夢中になって遊んだ型抜きやくじ引きなどの遊戯はワークショップに姿を変えました。
そして祭において神楽が担っていたものは生演奏やダンスなどのステージイベント・パフォーマンスへと変わっていったのです。 ここでこのはなしの本題へとやっと戻ることができます。
祭の神楽がフェスタにおける生演奏だとしたら「わたしの」が新しい形の祭において果たす役割は「神楽的なもの」を行うことです。これまでの祭で神楽が担っていたものをフェスタにおいて行うことが大事だと感じました。その役割を担う「わたしの」が古い祭の象徴であるような神楽殿の前から活動を出発させたことは果たして偶然なのか、必然なのか?
神社を会場にして行われたのはその一回限りのことで、そのイベントは年毎に会場を転々としています。公園で開催されたこともあります。駅前の広場もありますし、図書館前の時もありました。
神社で開催された年と初LIVE がたまたまちょうど重なったそれは偶然に過ぎないのかもしれません。
しかし、私はもともと祭や年中行事などが好きで先にも書かせてもらったとおり学生時代は休みがあると地方の無形文化財に指定されたような舞や儀礼を見に行っていたほどだったので、そのような祭や神楽と、音楽と、「社会」や「集団」について検証することがきっかけで生まれた「わたしの」がここにきて緩やかになわれていくように一本の道筋となっていく気がして、それが偶然という言葉では片付けられないと感じていたのです。
「祭を模倣する」
「わたしの」のLIVE は公園や駅前などの広場で行われることが多いのですが、どんな場所であっても上記の言葉を少しでも実現したいなーと考えています。実現といってもそのままをやるという意味ではありません。「わたしの」の楽曲は神楽とは程遠いものです。祭囃子を再現するということではなく、神楽のエッセンス、先人たちの知恵にほんのちょっと触れたいのです。
初LIVE の次の年の秋のことです。
あるイベントでの演奏が決まりまして、そこで披露するために私たちは新しい曲に挑戦していました。
その曲のタイトルは『名前のない幽霊たちのブルース』
遠回りに遠回りを重ねていましたらいつの間にかお時間となってしまいました。この続きはまた次回とさせていただきましょう。
つづく。
【プロフィール】
「わたしの」
1979年生まれ。山梨県出身。
学生時代は『更級日記』、川端康成、坂口安吾などの国文学を学び、卒後は知的障害者支援に関わる。
2017年、組織の枠を緩やかに越えた取り組みとして「わたしの」を開始。
「愛着と関係性」を中心テーマにした曲を作り、地域のイベントなどで細々とLIVE 活動を続けている。
音楽活動の他、動画の制作や「類人猿の読書会」の開催など、哲学のアウトプットの方法を常に模索し続けている。
♬制作曲『名前のない幽霊たちのブルース』『わたしの』『明日の風景』
Twitter
初LIVEを終えて、まったくお客さんの心に響く演奏ができなかった「わたしの」。失意のどん底にいたが打ち上げで仲間から励まされ、細々とでもいいから活動を続けていくことに意味があることに気付く。同時に初LIVE を終えて運命的な何かを感じつつあった。社会や集団について検証する「わたしの」のはなし。
「わたしの」の初LIVE は町の小さな神社の境内にある神楽殿の前で行われました。その様子はブルース(2)でも紹介した通り鳴かず飛ばずといった感じだったのですが、それはさておき、私が気になったのはLIVE の場所についてです。そのはなしをしていきたいと思います。
私は特に過激な運命論者では決してないのですが、偶然に起きたような出来事に対しても必然を感じることがあります。縁と呼ばれるものはきっとあるんでしょうね。
「わたしの」のLIVE が神社の神楽殿の前から出発したことも、偶然のような必然のような、判然とはしないんだけれどどこか特別な意味を持っているように私には思えました。
私は里神楽や祭、年中行事といった土俗的なものに学生時代から関心があり、休みがあると地方の無形文化財に指定されたような(概ねひっそりと執り行われていることが多いのですが)伝統芸能、神楽、舞、儀礼などを見に行ったものです。なんとも暗い学生時代ですがそれはともかく………。
そのうちに祭や神楽について自分なりに考察し、気付いたことがありました。それは、
『祭とは地域社会や集団の結び付きを強め、豊かなものにするために先人たちの知恵によって発明されたものである』
ということです。この考えは「わたしの」のあり方の土台ともなっているものです。
「祭を模倣する」と私が表現するものです。
言い換えると「祭の原理」を使用することです。「祭の原理」とは何かというと「本当の目的をプロセスの中に巧妙に埋め込むこと」です。この辺りが非常に分かりづらい言葉遣いになってしまってすみません。例をあげて説明します。
例えば、祭には「御幸(みゆき)」というのがあります。祭の参加者が大勢で御輿を担いだり、山車を引いたりしながら町内を練り歩くというものです。
揃いの法被を身につけることもありますが、法被を来ていない人でも一緒に歩いて参加できるようなものです。
私のよく知る祭では大人が両手を広げても届くか届かないかくらいの巨大な木製の車輪がついた山車をみんなで引っ張ります。その山車の上では祭囃子が鳴り神楽が奉納されています。重量も相当あるのでみんなで引っ張ったってスローな速度なわけです。子どもや高齢者でも後ろからついて歩けるほどなのです。神社を出発して町内を回り半日くらいかけて戻ってきます。
この「御幸」の目的は神様をのせて町を練り歩くことで一年の平穏無事を祈ることであると説明されることがあります。しかし、本当の目的は先人たちによって巧妙に仕掛けられています。
「御幸」に参加してみると分かるのですが、普段は自転車や車で一瞬で通りすぎてしまう道をじっくり時間をかけて歩きます。すると町の地理はもちろんのこと、町のことがよーく見えてくるのです。
例えば「この家にはこの人が住んでるんだ」とか「この人はひとり暮らしなんだ」とか自然と分かってくるのです。また「この人たちが家族なんだ」とか「あの人とあの人は気軽に話せるんだ」とか、誰と誰がどういう関係でつながっているかがおおよそ見えてきたりします。参加者ひとりひとりの頭の中に半日かけて町の地理や関係図がなんとなく出来上がってくるわけです。隣に誰が住んでいるかも分からない地域と比べてどうでしょう。「御幸」は本来の目的である強固な地域作りの土台になる体験を参加者にもたらすのです。祭の目的がプロセスの中にあるというのはこのようなことを指します。
先人たちが意識的に目的を隠したのかは定かではありません。当初はみんなの共有事項としてあったものが時の経過とともに形の中に隠れていったのかもしれません。祭が形骸化してみえるのはそのような理由が一つにあるのかもしれません。
『祭は先人たちの発明』であることを書いてきました。しかし、今多くの地域で祭が廃れてきています。
それはなぜなのかというと、これまでの祭が農耕社会を基盤にして成り立ってきたものだからです。私が子どもの頃過ごした地域のお祭りは土日開催ではなく、古くからの習わしにちなんだ、古来の暦に沿った日に執り行われていました。ですので、平日に行われることもあったのですが、その日は学校がお休みになる子どもにとっては嬉しい日でした。農業に従事している人は合わせられるかもしれません。しかし、会社勤めの人は会社を休んで参加することが求められます。そこに農耕を基盤にして成り立った祭と現代人のギャップがまずあります。
また、話を里神楽に限局して言えば、舞のモチーフが土を耕す動きであったり苗を植える動きであったりするので昔は生活のなかに当たり前にあった動きですが、現代では馴染みの薄いものになっています。そしてテーマは「五穀豊穣」が多く、その願いもまた現代社会を生きる者の願いと重ならない部分も出てきました。
このように農耕を基盤にした祭は徐々に現代社会にフィットしなくなってきました。
祭によっては参加者が減少し、廃止になったものや規模を縮小したものが少なくありません。
しかし、廃れるものがある一方で、祭の数が減ったかというとそんなことはありません。みなさんの周囲を見回して見てください。「○○フェスタ」や「○○マルシェ」といった新しい形の祭が続々と生まれてきてはいませんか?今を生きる人々が自分たちの生活にあった新しい祭を創出しようとしているのです。
それは、人間の「地域社会」や「集団」をより豊かなものにしようという願いが昔も今も変わらない普遍的なものであるということの証拠なのかもしれません。
私はお祭り野郎といった目立った存在では決してなく、どちらかというと仄暗い日陰を選んで歩いてきたような人間なのですが、子どもの頃から近所の神社で執り行われる祭、縁日が大好きで、神楽のお囃子が遠くから聞こえてくると浮き足立ちふらふらとそちらに引かれて行ってしまうようなところがありました。
笛太鼓のお囃子と縁日の賑わい、遠い空と午後の光。子どもの頃に体験したものが今でも胸に残っていてノスタルジックな光景としていつでも思い返されるのです。
さて、農耕を基盤にした古い祭が現代的な新しい祭(仮にフェスタと呼びます)に変わっていくときに、祭が持っていた機能も新しい形へ変わりました。
例えば縁日における露店はフェスタにおいて飲食や物販のテント(市)に変わりました。子どもが夢中になって遊んだ型抜きやくじ引きなどの遊戯はワークショップに姿を変えました。
そして祭において神楽が担っていたものは生演奏やダンスなどのステージイベント・パフォーマンスへと変わっていったのです。 ここでこのはなしの本題へとやっと戻ることができます。
祭の神楽がフェスタにおける生演奏だとしたら「わたしの」が新しい形の祭において果たす役割は「神楽的なもの」を行うことです。これまでの祭で神楽が担っていたものをフェスタにおいて行うことが大事だと感じました。その役割を担う「わたしの」が古い祭の象徴であるような神楽殿の前から活動を出発させたことは果たして偶然なのか、必然なのか?
神社を会場にして行われたのはその一回限りのことで、そのイベントは年毎に会場を転々としています。公園で開催されたこともあります。駅前の広場もありますし、図書館前の時もありました。
神社で開催された年と初LIVE がたまたまちょうど重なったそれは偶然に過ぎないのかもしれません。
しかし、私はもともと祭や年中行事などが好きで先にも書かせてもらったとおり学生時代は休みがあると地方の無形文化財に指定されたような舞や儀礼を見に行っていたほどだったので、そのような祭や神楽と、音楽と、「社会」や「集団」について検証することがきっかけで生まれた「わたしの」がここにきて緩やかになわれていくように一本の道筋となっていく気がして、それが偶然という言葉では片付けられないと感じていたのです。
「祭を模倣する」
「わたしの」のLIVE は公園や駅前などの広場で行われることが多いのですが、どんな場所であっても上記の言葉を少しでも実現したいなーと考えています。実現といってもそのままをやるという意味ではありません。「わたしの」の楽曲は神楽とは程遠いものです。祭囃子を再現するということではなく、神楽のエッセンス、先人たちの知恵にほんのちょっと触れたいのです。
初LIVE の次の年の秋のことです。
あるイベントでの演奏が決まりまして、そこで披露するために私たちは新しい曲に挑戦していました。
その曲のタイトルは『名前のない幽霊たちのブルース』
遠回りに遠回りを重ねていましたらいつの間にかお時間となってしまいました。この続きはまた次回とさせていただきましょう。
つづく。
【プロフィール】
「わたしの」
1979年生まれ。山梨県出身。
学生時代は『更級日記』、川端康成、坂口安吾などの国文学を学び、卒後は知的障害者支援に関わる。
2017年、組織の枠を緩やかに越えた取り組みとして「わたしの」を開始。
「愛着と関係性」を中心テーマにした曲を作り、地域のイベントなどで細々とLIVE 活動を続けている。
音楽活動の他、動画の制作や「類人猿の読書会」の開催など、哲学のアウトプットの方法を常に模索し続けている。
♬制作曲『名前のない幽霊たちのブルース』『わたしの』『明日の風景』