遅ればせながら、明けましておめでとうございます。
新年はみなさまにとってどんな年となっているでしょうか。
私は、先月に大学を卒業し、卒業式のために訪れていた母(以下、遊歩)とその後一ヶ月ほど一緒に過ごしていました。先週彼女は日本に帰り、ゆっくりと新たな日常のリズムに慣れてきているところです。
この前、六年来になる友人と久しぶりに電話した時に、「今、宇宙にとって一番大切なことってなに?」と聞かれました。
なかなか難しい質問で、すぐには答えが出てこなかったのですが、しどろもどろ話していたら、たどり着いた答えがありました。
それは、いつでも私の「真実」を曲げないこと。
遊歩と一緒にいると、様々な場面でちょっとした対立と出会います。
小さい頃の記憶で思い出すのは、電車に乗る時。駅員さんが、こちらの意向を聞かずに、「六号車両に乗ってください」と誘導してくるときに、「いえ、私たちは、四号車両に乗ります」というような感じで起こるやつ。
駅員さんは、「いえ、規則ですから」とこっちの意見に耳を貸すことは滅多にありません。
そこで遊歩はさらに「いえ、私たちは自分たちがどこに乗るか自分で決める権利があります」とさらに譲りません。
こうやって書くと穏やかな交渉のように聞こえるけれど、目的地への到着時間が決まっていたりすると、時間がありません。そんな中での交渉は、緊迫した空気を感じさせます。
小さかった私は、一緒にいた人に少し離れたところに連れていってもらったりして、そばにいることを嫌いました。
なぜなら、私は対立が苦手だったから。自分の主張を曲げてでも、平穏な方がいいと思っていました。
今思えば、遊歩の味方になるべきだったけれど、いく先々でしっかりと自分の権利の主張を曲げない遊歩に対して、「そんなに怒らないでほしいな」なんて思っていました。
そう、権利を主張することが「怒っている」ように見えたのです。
何か不正なことがあっても、私が声を上げるより先に、遊歩がいつも抵抗してくれたおかげで、私は自分から声をあげなければいけない状況に遭遇しても、抵抗するスイッチが入るのが遅くなりました。
そして、遊歩以外の人に対して、怒りの感情など「負の感情」とされている感情を見せるのも苦手です。
いつも、穏やかで幸せそうであることを常に選んできました。
権利を主張すること、抵抗することが、怒るように感じていたので、自然と大切なことへも声を上げないようになってきてしまいました。
十八の頃、そのとき一番仲良かった友人が、私の前で悲しんだり怒ったりしている姿を見て、「私も悲しめるようになりたい」と言ったことがありました。
そしたら、「悲しむこと、ないの!」と、とても驚かれました。悲しむことがないわけではなくて、人前でそれを見せるのが苦手だということも、うまく言葉にできないままでした。
それから五年が経ち、この数年は、ふとした瞬間に周りに自分のイライラが漏れてしまっている時があります。
疲れていたり、イライラするのを、周りに伝わることがいいというわけではありませんが、そんな瞬間に、自分が「人間らしく」なった気がして、嬉しくなるのです。
もちろん、自分の「真実」を曲げないというのは、人にイライラを見せるということとは違います。でも、私の中で似たような分類に振り分けられていたことなのです。
私にとっての「真実」とは、「この社会の中で誰一人置いていかれていい人はいない」ということです。
日本では特に、周りとの和を乱さないことがよしとされています。でも、そうした中で、私は自分の思いを押し込んできてしまいました。そして、声を上げないことによって、一番困っていくのは、自分含めた障害者や、社会的に立場の弱いところに置かれている人たちです。
だから、その「真実」を曲げないということは、周りとの調和を重んじ過ぎてしまうあまり、発言できなくなってしまうのではなく、私はこう考えるし、こうしたいという主張をちゃんとできることだと思っています。
先ほどの例に戻れば、駅員さんに、「ルール」だと言われれば、「そうなんですか」と従ってしまった方が簡単に思えます。
でも、電車には弱冷房車や、号車によって少し違いがある場合があります。
自分たちがどの号車に乗るかを選ぶというのは、基本的な権利です。
障害を持っていない人は、自分で選べるのに、障害を持っていたら選べないというのは、選べなくさせている社会の側の構造の問題なのです。
こうやって大きな視野を持ってみられるようになるには、時間がかかりました。
対立するような場面に出会ったとき、大きな視野を持つ前に、「対立したくない!怖い!」と思うと思考が停止してしまいます。
そうではなくて、大きな視野にたって、自分の思いを大切にすること。
そうする中では、イライラしているように聞こえることだってあるかもしれないけれど、それも悪いことではないのです。
これからは、遊歩が声を上げるとき、彼女を止めるのではなく、味方になりたいと思っています。そして、遊歩がいないときでも、ちゃんと自分の声を主張できるようになる必要があると感じています。そのためにも、ちゃんと私の中の大切なものを曲げないでいられるようになることが、今年、そしてこれからの抱負です。
【略歴】
安積宇宙(あさかうみ) 1996年石丸偉丈氏と安積遊歩氏の元に産まれる。
母の体の特徴を受け継ぎ、生まれつき骨が弱いという特徴を持つ。
ニュージーランドのオタゴ大学、社会福祉専攻、修了。現在、ニュージーランド在中。
共著に『多様性のレッスン 車いすに乗るピアカウンセラー母娘が答える47のQ&A』(ミツイパブリッシング)。
2019年7月、NHKハートネットTVに母である安積遊歩とともに出演。
新年はみなさまにとってどんな年となっているでしょうか。
私は、先月に大学を卒業し、卒業式のために訪れていた母(以下、遊歩)とその後一ヶ月ほど一緒に過ごしていました。先週彼女は日本に帰り、ゆっくりと新たな日常のリズムに慣れてきているところです。
この前、六年来になる友人と久しぶりに電話した時に、「今、宇宙にとって一番大切なことってなに?」と聞かれました。
なかなか難しい質問で、すぐには答えが出てこなかったのですが、しどろもどろ話していたら、たどり着いた答えがありました。
それは、いつでも私の「真実」を曲げないこと。
遊歩と一緒にいると、様々な場面でちょっとした対立と出会います。
小さい頃の記憶で思い出すのは、電車に乗る時。駅員さんが、こちらの意向を聞かずに、「六号車両に乗ってください」と誘導してくるときに、「いえ、私たちは、四号車両に乗ります」というような感じで起こるやつ。
駅員さんは、「いえ、規則ですから」とこっちの意見に耳を貸すことは滅多にありません。
そこで遊歩はさらに「いえ、私たちは自分たちがどこに乗るか自分で決める権利があります」とさらに譲りません。
こうやって書くと穏やかな交渉のように聞こえるけれど、目的地への到着時間が決まっていたりすると、時間がありません。そんな中での交渉は、緊迫した空気を感じさせます。
小さかった私は、一緒にいた人に少し離れたところに連れていってもらったりして、そばにいることを嫌いました。
なぜなら、私は対立が苦手だったから。自分の主張を曲げてでも、平穏な方がいいと思っていました。
今思えば、遊歩の味方になるべきだったけれど、いく先々でしっかりと自分の権利の主張を曲げない遊歩に対して、「そんなに怒らないでほしいな」なんて思っていました。
そう、権利を主張することが「怒っている」ように見えたのです。
何か不正なことがあっても、私が声を上げるより先に、遊歩がいつも抵抗してくれたおかげで、私は自分から声をあげなければいけない状況に遭遇しても、抵抗するスイッチが入るのが遅くなりました。
そして、遊歩以外の人に対して、怒りの感情など「負の感情」とされている感情を見せるのも苦手です。
いつも、穏やかで幸せそうであることを常に選んできました。
権利を主張すること、抵抗することが、怒るように感じていたので、自然と大切なことへも声を上げないようになってきてしまいました。
十八の頃、そのとき一番仲良かった友人が、私の前で悲しんだり怒ったりしている姿を見て、「私も悲しめるようになりたい」と言ったことがありました。
そしたら、「悲しむこと、ないの!」と、とても驚かれました。悲しむことがないわけではなくて、人前でそれを見せるのが苦手だということも、うまく言葉にできないままでした。
それから五年が経ち、この数年は、ふとした瞬間に周りに自分のイライラが漏れてしまっている時があります。
疲れていたり、イライラするのを、周りに伝わることがいいというわけではありませんが、そんな瞬間に、自分が「人間らしく」なった気がして、嬉しくなるのです。
もちろん、自分の「真実」を曲げないというのは、人にイライラを見せるということとは違います。でも、私の中で似たような分類に振り分けられていたことなのです。
私にとっての「真実」とは、「この社会の中で誰一人置いていかれていい人はいない」ということです。
日本では特に、周りとの和を乱さないことがよしとされています。でも、そうした中で、私は自分の思いを押し込んできてしまいました。そして、声を上げないことによって、一番困っていくのは、自分含めた障害者や、社会的に立場の弱いところに置かれている人たちです。
だから、その「真実」を曲げないということは、周りとの調和を重んじ過ぎてしまうあまり、発言できなくなってしまうのではなく、私はこう考えるし、こうしたいという主張をちゃんとできることだと思っています。
先ほどの例に戻れば、駅員さんに、「ルール」だと言われれば、「そうなんですか」と従ってしまった方が簡単に思えます。
でも、電車には弱冷房車や、号車によって少し違いがある場合があります。
自分たちがどの号車に乗るかを選ぶというのは、基本的な権利です。
障害を持っていない人は、自分で選べるのに、障害を持っていたら選べないというのは、選べなくさせている社会の側の構造の問題なのです。
こうやって大きな視野を持ってみられるようになるには、時間がかかりました。
対立するような場面に出会ったとき、大きな視野を持つ前に、「対立したくない!怖い!」と思うと思考が停止してしまいます。
そうではなくて、大きな視野にたって、自分の思いを大切にすること。
そうする中では、イライラしているように聞こえることだってあるかもしれないけれど、それも悪いことではないのです。
これからは、遊歩が声を上げるとき、彼女を止めるのではなく、味方になりたいと思っています。そして、遊歩がいないときでも、ちゃんと自分の声を主張できるようになる必要があると感じています。そのためにも、ちゃんと私の中の大切なものを曲げないでいられるようになることが、今年、そしてこれからの抱負です。
【略歴】
安積宇宙(あさかうみ) 1996年石丸偉丈氏と安積遊歩氏の元に産まれる。
母の体の特徴を受け継ぎ、生まれつき骨が弱いという特徴を持つ。
ニュージーランドのオタゴ大学、社会福祉専攻、修了。現在、ニュージーランド在中。
共著に『多様性のレッスン 車いすに乗るピアカウンセラー母娘が答える47のQ&A』(ミツイパブリッシング)。
2019年7月、NHKハートネットTVに母である安積遊歩とともに出演。