「いい加減、高齢者が自宅で一人で亡くなるのを孤独死なんて言い方するのみんなで止めようよ、急死でいいじゃん昔はそう呼んでたんだし。人の人生の終わり方を勝手に孤独って呼ぶのは失礼だと、葬儀屋のおじちゃんは強く思うんだ」
ツィッターの書き込みがミクシーで紹介されたものだけど、僕が普通に思っていたことよく似ているので、あらためてそうだよなーと、おなかの底にすーっと落ちたのでした。孤独死ってそんなに悪いものだろうか?僕も還暦過ぎて人の死に遭遇することも増えてきたし、介護の仕事やってりゃ人の死は避けられないものだ。僕だって、いつか死ぬ。それが孤独死だって全然不思議じゃない。
ドラスティックに言えば、人は死ぬときは全員孤独です。これだけは自信を持って言える。両親の時もそうだったし、最近なくしたクライアントさんの男性もそうだった。死ぬことって、本人にも周りにもどうしようもない。切ないことだけど。
宮沢賢治の名作「銀河鉄道の夜」のラストシーンは、主役のカムパネルラが銀河列車に一緒に乗ったジョバンニに「僕たちずっと一緒に行こうね」といった瞬間振り返ると、もうそこにはかけがえのない親友の姿は消えている。締め付けられるシーンだけど、実感として思うけど死ぬってそんなものです。
「孤独死」という言葉に反発をどうしても覚えるのは、一種の「評価」がそこに見えるからだ。「人がどう死のうが、どーでもいーじゃねーか」、です、僕が言いたいのは。
いつか来る死はだれだって怖い。だからなのだろう、僕らは自分らがこうあってほしいというフィクションを持ちたがる。
よくある“絵”ですが、ベッドに横たわっているあなたのまわりには、仲が良かった奥さんと子供たちが輪になって見下ろしている。最後の時、あなたは「ありがとう。幸せだった」といって息を引き取る。その顔にはかすかな笑みが浮かんでいる。
絶対にないとまでは言わないけど、「あるわけないじゃないか」と思う。家族に囲まれていようがいまいが、あなたは一人で、一人だけ死ぬのだ。
わかっていても性懲りもなく、だれだって幸せな死のフィクションを抱いてしまう。
かつての昭和の美女スター大原麗子さんの死が孤独死の例として挙げられることが多い。僕はそのたびに胸がむかむかした。
曰く、「あんな大女優があんな寂しい最後で」、「晩年は孤独だったらしい」、「きれいな女優さんだったのに」etc。きれいな女優さんだからかわいそうなのだろうか?そうじゃないだろう。評価が入ってるとはそのことだ。美しいのを鼻にかけてあんなにつんつんしていた高慢な女が…ざまみろという気持ちすら感じる。
あの「男はつらいよ」のマドンナもやった人。柴又駅前の撮影スタッフがよく来たという居酒屋で彼女のうわさを聞いたけど、性格が悪いとか、わがままとか、惨憺たるものだった。因みに松坂恵子さんは真逆に評判よかった。どっちだっていいのです。
でも僕はいいぞいいぞと、拍手して彼女をたたえたい気持ちだった。誰にもこびず好き勝手に生きたきれいな女優さんのイメージそのままだったから。好き勝手に生きて好き勝手に死んだ。それで十分だ。立派だとさえ思う。
僕の信頼する友人は、きれいな奥さんと愛らしい娘を含む家族がいるが、孤独死について聞いてみた。
「なんか理由つけて死ぬときは一人になりたいね。僕だってどうせろくなものじゃない。皆が旅行かなんかに出かけていて、帰ってきたら死んでた、なんて最高じゃないか」。
「ただ一人ほっぽかれて苦しむのはつらいから、家族以外で緊急の態勢は整えていてほしいね」。僕は、それは贅沢というものだろう、と答えた。「死ぬとき、家族になんか囲まれてたらうっとおしくて落ち着いて死ぬに死ねないもんな」これはジェラシー交じりの僕の返答。
僕は大家に関しては、緊急時にちゃんとやるという点だけは緊張感をもってやり遂げることができたかと思っている。何度か危ない時はあったけど、助けてくれる人がおらず苦しんで一人で死ぬなんて誰だって避けたい。別に書くけど、この点は僕の義務は果たせたと自負している。
【プロフィール】 1955年、佐賀県唐津市呼子町生まれ。いつのまにか還暦は過ぎ、あのゴジラよりは1歳年下。介護の仕事に就いたきっかけは先年亡くなった親友のデザイナーの勧め。「人助けになるよ」との言葉が効きました。約二十年くらい前に飲み友達だった大家が糖尿病で体が不自由になり、一昨年暮れに亡くなるまでお世話。思い出すとこれが初めての介護体験でした。今はその亡き大家のうちにそのまま住んでいます。元業界新聞記者、現ライター。