「即今(そっこん)、当処(とうしょ)、自己(じこ)」

秦 明雄




はじめまして、2019年12月1日付で入社させていただきました秦 明雄と申します。
現在、私は48歳で愛する妻と高校1年生になる一人息子がいます。息子は1歳のときに7時間の手術をし、その後も3回の手術をしました。人生の悩みは尽きないものですね。

私たちの誰もがいい人生を歩みたいと思っているのではないでしょうか。
私も心からそう思っている一人です。
介護とは無縁の異業種から転職し、この約4ヶ月間は毎日が初めて乗るジェットコースターのようで長年にわたって気分転換でする趣味の坐禅を忘れてしまうほど、あっという間に過ぎた時間でした。

まだまだ介護のイロハも習得していない私が多くを語ることはできませんが、
ご利用者様宅を訪問させていただき現場でケアを重ねていくたびに、ご本人様や懸命に介護をなさっているご家族の方と関わらせていただく中で、人間がこの世に生まれ与えられた命とどう向き合い、そしてどう生きていくのかということに対していろいろな感情が掻き立てられます。
そして昨今の大きな時代変化に伴うさまざまな社会環境や、時代の流れとともに移り行く人間の価値観なども照らし合わせ「何をもっていい人生といえるのだろうか」という迷宮入りするような自問をするようになりました。

そんな心境で先日、偶然なのか必然なのか絶妙なタイミングで珍場面に遭遇しました。それはご利用者様宅でのケアが終わった帰りの電車での出来事です。私は新宿駅から山手線に乗ったのですが乗車した瞬間、車内でものすごい音がしていたのです。何かと思ったら、なんと40代くらいの男性が顔を上に向けて口を大きく開けながら爆音でいびき!
周囲の人たちは険悪な表情でその男性を見ていて付近一帯が重い雰囲気で包まれている中、恵比寿駅から外国人4人のカップルが乗ってきて女性がいびきをかいている男性を見たとたん大爆笑しながらWonderful(素晴らしい)と!
その場面を目の当たりにしていた私は、険悪な人たちと大爆笑をしている外国人たちの、あまりにも真逆な反応に思わず笑いをこらえながら大袈裟かもしれませんが、ある意味で現実世界の真理を垣間見た感じがしました。

と申しますのも、私たちの人間社会では善悪、優劣、勝ち負け、メリットデメリット、損得、好き嫌いなど背反する二元論の概念が基本的原理として働いています。つまり事柄は同じでも受け取り方や解釈、感じ方の違いで体験や経験そのものが全く変わるということです。
ちなみに私は無宗教ですし、ここで哲学的なことや精神論を諭すつもりはございませんが現在、世界に先駆けて超高齢化社会を迎えている日本が歩んでいくこれからの道のりは多くの問題や課題が山積しています。しかし二元論ではなく、総合的に多様性を容認し肯定する概念の多元論で新しい理想の社会を創造していく力が日本にはあると私は信じているのです。ただ信じるだけの他力本願ではなく、今の私にできることは何か…。

冒頭で少し触れましたが私の趣味の一つに坐禅があります。禅との出合いはちょうど27歳のときでした。大学卒業後、満身創痍でがむしゃらに仕事に取り組み血尿を出しながら、また吐血寸前の状態でも結果最優先でとにかく目標達成だけをモチベーションに働いた結果、どんなに結果を達成しても満たされない欲望に囚われ、誰もが本来は兼ね備えている人間の本質である優しさ、思いやり、無条件の愛を見失っている自分に気づき坐禅を始めたのがきっかけでした。当時もがいていた27歳の若造が直観的にその教えに心惹かれ、とにかく今よりもっと幸せに生きたいと縋る思いから坐禅を始めたのを今でも鮮明に覚えています。

禅語には奥深い実践の教えがいくつもあります。たとえば「只管打坐(しかんたざ)」「眼横鼻直(がんのうびちょく)」「照顧脚下(しょうこきゃっか)」「空手還郷(くうしゅげんきょう)」など。
そして今回のコラムタイトル「即今、当処、自己」も禅語の一つですが、これは「今、その瞬間に自分がいるその場所で、自分ができることを精一杯やっていく」という意味で、これが禅の基本的な考え方であり命を全うするというのは、まさしくそういうことです。

末筆となりますが今日も明日も明後日も、ビジョン「全ての必要な人に必要なケアを」に向かって「即今、当処、自己」を実践して参ります。




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