余裕を持つということ

余裕を持つということ

菅野真由美



皆さん毎日余裕をもって生活されていますか?

思えば幼少期、余裕などと言う言葉さえ知らず理解もしない頃、自分のペースで自分のおもむくまま生活をしていました。 それが成長するにつれ時間で管理される環境下になり、「早くしなさい」「急ぎなさい」としつけられ集団生活に必要なスキルを身に着けていきました。 これは社会に適応していくには当たり前の事で、現在タイムスケジュールにそって生活できるのはそのおかげだと思います。

私は集団行動が苦手な子供でした。正確にいうと今も苦手です。皆に歩調を合わせる、ペースを同じくする、ましてや同じ方向を向くなど、個人的にはストレスです。 なぜなら自分の余裕がなくなるからです。人それぞれ解釈は違うでしょうが、私にとっての余裕とは色んな動きや考えの遊びのような部分で、突然の方向転換や思いもよらないイレギュラーな対応には不可欠なものです。 ですが長い社会生活の中で知らない間に順応し、人並みにペースを合わせた生活と引き換えに余裕を失ってしまいました。

現場専従で動いていた時はかなりの余裕をもって行動していた私ですが、その時よりも移動範囲も移動距離もある今の状況で、時間的余裕がなく、電車の乗り継ぎはいつもぎりぎりです。 何とかセーフだったと、その間に合った行為が幸せに感じることすらあります。 余裕がなくなると、家族の様子にも目がいきません。学校で何かあったな、体調が悪いのかな、と気づけたことが、本人からの申告がないとわからない時があります。

余裕がなくなると、部屋が汚くなります。忘れ物が多くなります。注意散漫になり集中力が途切れます。人に対しても寛容になれません。

余裕がないときほど、仕事もうまくいきません。新規の相談依頼の訪問の際など「やらせてほしい」と言わんばかりの気持ちで行くと、相手の要望をほぼ聞いてもなぜか断られます。そこにこちらの余裕のなさを感じられてしまうのでしょう。 ですが余裕がある時は、じっくりと聞き、しっかりと受け止め、こちらで提案できることを伝え「ではご検討ください」と帰宅すると、速攻依頼の連絡が入ります。
不思議です。

余裕のなさは確実に相手に伝わり、また相手を不快にさせるのです。

支援の現場ではどうでしょうか。大体指摘のあることはマナーの悪さと余裕のなさです。 挨拶が無かった、靴が脱ぎっぱなし、利用者宅の洗面所で髪を整える、トイレを汚して帰る、ヘルパーが食べた食事のごみを置いていくなど、技術の問題以前の指摘をされます。自分の行動を振り返る余裕がないとこのように人としての部分の評価が下がります。

その他メモを忘れた、焦って間違えた、気持ちがいっぱいいっぱいで変化に気づけなかった、帰りを気にして片づけを忘れた、文字盤が読めず焦ってしまいどつぼにはまってしまった、などなど。 ここに気持ちの余裕があると、見える距離や範囲が広がり、目の前の木を見て仕事をするのではなく、全体の森を見ての仕事が出来るようになります。全体の森が見えていれば、自分がどう動けばよいのか予想もたてられ、余裕のオーラがでてくるので相手にも安心感を与え、自らも大きな失敗がまぬがれたり、また失敗しても立て直しが図れるのです。

人としての余裕は、相手に安心感を与えるのです。

自分がいっぱいいっぱいだったら相手のシグナルには気づけません。言うなれば「気づき」は自分に余裕がないと生まれません。

気づきの先に理解がうまれ、理解の先に自分なりの評価ができ、実行に移すことで行動ができる。 心に余裕を持つことはそういう一連の環境がうまれるのです。

余裕はゆとりとも解釈されます。 以前知人に「一見無駄と思えることの中に価値のあるものがある」と言われたことがあり、それまでの自分に無かった価値観に出会いました。 余裕を忘れ合理性ばかりを追求してきた私は、それ以来あえて遠回りを選ぶことがあります。 忘れかけていましたが子供のころは学校からの帰り道、池があった、田んぼがあったと道路にランドセルを放り出し、道草ばかりで中々家にたどり着きませんでした。親によく叱られましたが、色んなことを発見しワクワクしたものです。そして学校や家庭で教えてもらわないことをたくさん学びました。

仕事でも一見無駄かなと思われることもそれは私たちの価値観だけで判断しているにすぎません。色々なことに行き詰まったら少し遠回りをしてみませんか。少しだけ心にゆとりがうまれるかも知れません。 そのゆとりはきっと人に優しさを与え、気づきをもたらしてくれることと思います。

※菅野真由美プロフィールはこちら


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