でこぼこみちを歩く -戦争はまだそこらにもある-

城谷平


先に「戦争は女の顔をしていない」という本の紹介をさせていただいたけど、一種のきっかけを感じたので、自分なりに知っている戦争のことをいくつか書いておきたいと思います。自分のことを棚に上げて言うけど、たかが70年前のことなのに日本人って“物忘れがいい”と、物覚えが悪い僕はしみじみ思う。

前にも書いたけど、僕は戦後10年たって生まれた「戦争を知らない子供たち」のさらに年下の世代です。付け加えるなら現総理(名前も書きたくない)は僕より一つ上。でも思うのです。戦争を直接知らなくとも、すこし想像力を働かせれば、例えば大空襲を受けた東京には今だって、そこらに戦争は転がっています。だから刮目(目を見開いて)して耳をそばだててほしい。

もう10年くらいも以前のこと。中央線は高円寺駅のガード下のヤキトン屋の椅子に座っていた。四の文字が店名にあるチェーンといえばご存知の方も多いでしょう。ここはオープンエアで文字通り開放的で気持ちよく安く飲むことができる。

この店のオリジナルでしょうか、トンソクをほろほろになるほど煮た、イタリア料理のオッソブッコ(実はそんなに食べたことないけど、知ったかぶり) みたいな料理を食べていた。この店のことだから一番高めだけど五〇〇円したかな。

煮えた軟骨とスジは意外に油がきつくなくコラーゲンたっぷりでおいしくお肌にもよさそう。醤油味でからしをつけて…。チューハイを一杯飲んだ頃だったか、その七〇歳くらいと見えた男性が「ここいいですか」と隣に座った。

その時は八月の暑い真っ盛りのころでした。その人は扇子を持ってて、落語にでも出かけそうな、昭和の江戸っ子の感じ。
扇子を使いながら、「暑いですね」、の決まりのあいさつの後こう切り出した。
「私の母はね、こんな日にも和服でしたよ。体の線が出る洋服は絶対着なかった」。

何かを話したいのだな、僕は直観で感じた。何かを教えてもらえるのは、こういうときです…彼が話したのはこんなことだった。

八月一五日の日本の敗戦の後のある昼下がり。戦争は終わってたのに…

当時は、東京湾の中に米軍の空母を含む太平洋艦隊がいた。いわゆるオキュファィドジャパンのころ日本は連合軍の占領下にあり、各地に米軍が駐留していた。東京は焼け野原。当然のようにグラマンなど戦闘機が都の上空を飛んでいた。先に書いておくけど当時の戦闘機はジェットではなく、レシプロ機といわれるプロペラで飛ぶ飛行機、独特の轟音を発する。

その日の昼下がり、男性はまだ幼子で、お母さんの背中におんぶされていた。多摩川の川っぷち。お母さんの手にはコロコロと軽い音がする子供をあやすおもちゃが握られてて、ふんふんと鼻歌なんか歌ってた。

暑い日だからなるべく木陰を選んで歩いてる。お母さんは子供をあやしながら、体を軽くゆすってる。子供は寝ているようだ。ゆるい川風。暑いとは言っても今の不快な暑さとは違ってたかもしれない。

完璧に平和で幸福な光景に見えただろう。でもそうではなかった。
お母さんには全く分からなかった。なぜなら、“それ”は無音だったから。
濃紺のF6Fヘルキャット、文字通り地獄の猫。エンジンを切った戦闘機は忍び寄る猫のように、母子の背後の超低空を飛んでいた。機体がふわっと浮き上がり、お母さんの視界が暗くなる。不吉な真っ黒い影が道の二人に覆いかぶさった。

そして機銃発射のほんの短い音。掃射というほどもない、ほんの数発。

パイロットは面白半分の狩りのつもりだったろうか。狩りの獲物を確かめることすらしていない。そこでエンジンをかけ上昇、すぐ反転して母艦に戻ったのだろう。狩りにおいても、心あるハンターは母子連れのクマなどは見逃すと聞くけど。

いきなりのエンジン音、ただならぬ気配。お母さんは、とっさに機影を感じておぶった子供を戦闘機から遠ざけようと体を回したのだと思う。機銃弾は、若いお母さんの両の乳房を貫いていた。血しぶき。二人は横倒しになった。子供ともども命が助かったのは奇跡だったかもしれない。あのダーティハリーのマグナム弾は軽く冷蔵庫を貫通するといわれるが、戦闘機の機銃はその比ではない。胴体の真ん中に当たれば人間の体なんて真っ二つにちぎれる。

お母さんは気絶している。子供の引き裂くような鳴き声。生きているしるし…。

だからお母さんは暑い真夏でも和服しか着なかった。これ以上書くことはないですね。

だから、僕は高齢の人を世話する現場などでは機会があれば、戦争の話など聞くことにしている。勿論、相手の気持ちが最優先ですが。でも長くインタビューを仕事にしていた者として思うのは、誰かに自分の体験を聞いてほしいと思っている人は多いと思う。



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