地域生活を支える ~社会参加活動はいばらの道?生き甲斐? part1~

渡邉由美子


書き始めが以前書いたものと重複しているかと思いますが、私は養護学校を卒業する時点で卒業後の進路が決まっていませんでした。他の生徒は次々と企業就職したり職業訓練校に合格したり、福祉的就労として通所の日中活動先が決まっていく中で、私の卒業後の進路は遂に最後まで在宅の二文字でした。そのまま卒業アルバムに掲載され先行きが不透明で宙ぶらりんな門出となりました。

そのままでは人間が腐ってしまうと焦りを感じながらもどうすることもできず、何処かに私が出かけると家族の手を必ず煩わせなければならなかったので、外出の機会は月に数回、家族の都合を優先して、家の車でイベント的に外出させてもらうといった感じのものでした。そのため生きる世界がたいへん狭く、私には何もできないと思い込んでいた時もありました。そんな生活から解放してくれたのが、その当時は同年代ということでできた学生ボランティアさんとの出会いでした。

その当時は、大学自体も今のように規制は厳しくなく、部外者の私が学食の前で募集のチラシを配っていても、何もお咎めを受けることはありませんでした。そんな状況に気を良くした私はチラシを受け取ってくださった数人の学生さんに紹介されるままに手話サークルに参加したり、点字サークルに参加したりすることを覚え、そこでの人間関係を糧に自分の世界を自分で広げるきっかけを得て、まずは親姉妹に頼らず外出することに成功しました。

最初のうちは、遊びの外出を楽しむことで満足していましたが、当然のことながら遊んでばかりいると、そのための軍資金がなくなり、毎回良い歳をして家族に遊ぶお金まで面倒を見てもらうのは心苦しく、せめて娯楽費だけでも自分で稼ぎたい!と強く望むようになりました。それが私の社会参加活動を遮二無二求め続ける原点となりました。一般的に言う就労にも若い時にはチャレンジし、障がい者向けの合同面接会にも何回か応募し、雇ってくださるという会社も二社ほどありました。なにも知らない私は就職ができるのだと純粋に大喜びしました。そして出社の日を目前に控えたある日、会社から電話がかかってきて、うちの会社は車椅子で働けるようにはなっていない。オフィスも螺旋階段をのぼった三階なので会社には出社しなくても良いと告げられました。

その頃、出始めのワードプロセッサーを使って会社の社内報の打ち込みや会社の親睦会のご案内などを作って欲しいと依頼されましたが、期日はいつまでですか?と私が質問すると、「いやいや、お体にさわってはいけませんからできた時にご家族様にでも届けていただければそれで大丈夫です。」と説明にならない説明をされ、私には雇ってもらったのに実質仕事をしなくても良いと言われたことの意味が全然理解できませんでした。両親はすぐにその意味を理解して、この就職は、正式に雇われたわけではないから諦めようと言って私を諭してくれました。

後々、私も社会の事が少しずつ解っていく中で理解できたのですが、障害者雇用促進法という障がい者を企業は一定程度雇わなければいけないという法律があり、それを達成しないと罰金を払わなければいけないのです。多くの企業は未だにそれでも障がい者を雇わず、罰金を払っていますが、中小零細企業の中には罰金も免れ、企業イメージも上がるため、仕事をさせる気などさらさら無いけれど、書類上雇った形に体裁を整えるのです。私を雇うといった会社がそうであったかどうかは定かではありませんが、車椅子で働ける環境を整えたとか、障がい者が働くためにジョブコーチ的な人を余分に人員配置したなどと申請し、その分の障害者雇用促進法からの助成金をもらい、零細企業はそれで利益?を得ていたなどという話もありました。

バブル景気、バブル経済の頃の話で社会全体の経済にゆとりがあった時代の話ではありますが、一種一級の身体障害者手帳の人間を雇っている形にするということで企業側にも大きなメリットがあったようです。すぐにこれは本来の就職とは違う、何かがおかしいと思い、辞めてしまったので、あのままただ会社に在籍していたら働かないのにいくらいただけていたのかは、今となっては解かりません。若かりし純粋な私が社会の現実、厳しさ、闇を初めて思い知った就労もどきの経験でした。しばらく私は社会からやはり受け入れられない人間なのだと大層落ち込み、なにをする意欲も湧かず、今でいう引きこもり、オタク生活をしていた暗澹たる時代を過ごしました。

そこから就労だけが人生ではないと思いなおし、気を取り直して重度の障がいを持ちながら貪欲にたくましく社会参加してきた歴史を次回は紐解いていこうと考えています。社会参加活動の中で得られたわずかな資金を元手に地方から上京し、今の生活の立ち上げをするに至りました。働けなくても人としての価値は変わらない。と胸を張って言えるようになるのは大変でした。でも、人生捨てたものではない、とこの頃やっと心の底から言えるようになってきました。

次回も楽しみに読んでくださいね。



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