さて前回は、
・過去の私自身の、アルコール依存症的状況は障害と呼べたのではないか
ということと
・個人における“生き辛さ”のことを「障害」と呼んでみたい
という二点を問題提起とさせていただきました。
今回は私の感じた“生き辛さ”の中から私のお酒との関係を例に挙げながら、障害についての思考を掘り下げていきましょう。
先に挙げたように、私の20代から30代中盤はお酒とともにあったと言っても過言ではありません。出来るだけ酔っぱらっていたかったので、学生時代は目先のお金の為にアルバイトに多くの時間を割き、わずかな収入を得ては安酒でいかに効率的に酔えるかということを考えていました。
また、音楽活動にも結構な額を遣っており、アパートの家賃を滞納したり、水道光熱費を後回しにするなど、して放蕩に放蕩を重ねていました。愚かと言えると思いますが、その当時の私には、その選択以外できなかったでしょう。
私がお酒に取り憑かれるようになったきっかけは、大学の入学式の前に音楽サークルに入ったことが大きかったでしょう。鹿児島の片田舎では出来なかった音楽の話を一晩中できる人たちと出会い、そこで本格的に飲み始めましたた。
飲んで楽しく、楽しく飲んでと繰り返すうちに“酒=たのしい”と誤認識し始め、アルバイトや授業の時間は「嘘の時間」で、早く過ぎ去るべきものであり、“お酒を飲んでいる時間=本当の時間”という認識が、正しいこととして私の20代を覆ったのでした。
そして、酒を許容する人=いい人、酒を許容しない人=間違っている人、という認識も育ち、当然のことながら「身体を壊すよ」という至極真っ当な意見に内心怯えながらも、もとい、怯えていたからこそ、お酒を飲まない先生の授業はどんどん受けなくなり、お酒のない人間関係は殆ど遮断していったように思います。
そうして留年を重ねたわけですが、その頃私の父がいよいよ体調を崩し、大学6年か7年の冬、亡くなったのです。
若かりし頃の事故で腎臓を一つ無くした父は、その手術の折の輸血でC型肝炎に感染し、色々の要因が重なり肝細胞癌を発症し、闘病生活と死の床へ流れていきました。その要因の中には、酒を殆ど毎日飲むこともあったと思うのですが、両親との間にできた軋轢の為、死に往く父の諌めの言葉は、鹿児島と僕が当時住んでいた北関東との距離によって薄まったことと、自分の中でどうしても合格点の人間になるまいとする気持ちが相まって、酒を飲むことを賛美する文章や、飲んだくれの歌手の音楽や、そういった風情の映画などを見ることで、理論武装することに向かわせることに止まりました。
父の死の情景は割愛しますが、とどのつまり、近親者の死を以ってしても、私の酒飲みのペースは緩むどころか、寧ろ強まっていったということです。
私はそのとき、明らかに自閉しており、飲酒に関しては肯定論しか受け付けませんでした。
そしてこの状況は、つい3年前まで続きました。
さて、月日が流れ、私は現在家庭を持ち、子供を授かっています。子供が自分でなんとか出来るようになるまで、出来るだけ命の危険から守らねばならない立場になった私は、すっぱりとまではいかないものの、毎日酒を飲まなければ寝られないという状況から脱しました。
もし当時、アルコール依存症であるという診断を受け、なにがしかの依存症脱出プログラムに参加していたら、私の自己認識は「アルコール依存症の治療を要する人」というものになっており、そこから立ち直れたかどうか定かではありません。また、今の家庭があったかどうかはもうわかりません。
月並みな言葉ですが、将来への不安と、酒宴の楽しさ、両方に苛まれ、喜ばせられながらただただ飲んでいたあの頃。戻りたいかと言われれば、今はそう思わないと言えるのですが、あの時出会った人々や、酒の席の気軽さが生んだ縁、また彼らと研いだ思考、それらは酩酊の霧の奥にあり、全て思い出されるものではありませんがあの時期があったから今があるとも言えることだし、確かに私の時間であり、それ故に無かったことには出来ない。そう思っています。
私の過去の、障害と名が付けられたであろう、私のアルコール依存歴についてお話ししました。
さて、これはあなたの人生において、絶対に起こらないことと言い切れるでしょうか。
略歴
1981年、鹿児島県産まれ。
宇都宮大学教育学部国語科教育八年満期退学
「東京に行け」との高校の恩師の言葉を独自解釈し北関東に進学。
修辞学、哲学、文学、芸術、音楽、サブカルチャー等乱学。
効率、生産性ばかり喧伝する文化の痩せた世の中になった2008年ごろ、気づいた頃には相対的に無頼派となっており、覚悟し流れ流れて福祉業界に。
知的障害者支援、重度訪問介護、などに従事。
「能(よ)く生きる」ことを追求している。
友愛学園成人部職場会会長
・過去の私自身の、アルコール依存症的状況は障害と呼べたのではないか
ということと
・個人における“生き辛さ”のことを「障害」と呼んでみたい
という二点を問題提起とさせていただきました。
今回は私の感じた“生き辛さ”の中から私のお酒との関係を例に挙げながら、障害についての思考を掘り下げていきましょう。
先に挙げたように、私の20代から30代中盤はお酒とともにあったと言っても過言ではありません。出来るだけ酔っぱらっていたかったので、学生時代は目先のお金の為にアルバイトに多くの時間を割き、わずかな収入を得ては安酒でいかに効率的に酔えるかということを考えていました。
また、音楽活動にも結構な額を遣っており、アパートの家賃を滞納したり、水道光熱費を後回しにするなど、して放蕩に放蕩を重ねていました。愚かと言えると思いますが、その当時の私には、その選択以外できなかったでしょう。
私がお酒に取り憑かれるようになったきっかけは、大学の入学式の前に音楽サークルに入ったことが大きかったでしょう。鹿児島の片田舎では出来なかった音楽の話を一晩中できる人たちと出会い、そこで本格的に飲み始めましたた。
飲んで楽しく、楽しく飲んでと繰り返すうちに“酒=たのしい”と誤認識し始め、アルバイトや授業の時間は「嘘の時間」で、早く過ぎ去るべきものであり、“お酒を飲んでいる時間=本当の時間”という認識が、正しいこととして私の20代を覆ったのでした。
そして、酒を許容する人=いい人、酒を許容しない人=間違っている人、という認識も育ち、当然のことながら「身体を壊すよ」という至極真っ当な意見に内心怯えながらも、もとい、怯えていたからこそ、お酒を飲まない先生の授業はどんどん受けなくなり、お酒のない人間関係は殆ど遮断していったように思います。
そうして留年を重ねたわけですが、その頃私の父がいよいよ体調を崩し、大学6年か7年の冬、亡くなったのです。
若かりし頃の事故で腎臓を一つ無くした父は、その手術の折の輸血でC型肝炎に感染し、色々の要因が重なり肝細胞癌を発症し、闘病生活と死の床へ流れていきました。その要因の中には、酒を殆ど毎日飲むこともあったと思うのですが、両親との間にできた軋轢の為、死に往く父の諌めの言葉は、鹿児島と僕が当時住んでいた北関東との距離によって薄まったことと、自分の中でどうしても合格点の人間になるまいとする気持ちが相まって、酒を飲むことを賛美する文章や、飲んだくれの歌手の音楽や、そういった風情の映画などを見ることで、理論武装することに向かわせることに止まりました。
父の死の情景は割愛しますが、とどのつまり、近親者の死を以ってしても、私の酒飲みのペースは緩むどころか、寧ろ強まっていったということです。
私はそのとき、明らかに自閉しており、飲酒に関しては肯定論しか受け付けませんでした。
そしてこの状況は、つい3年前まで続きました。
さて、月日が流れ、私は現在家庭を持ち、子供を授かっています。子供が自分でなんとか出来るようになるまで、出来るだけ命の危険から守らねばならない立場になった私は、すっぱりとまではいかないものの、毎日酒を飲まなければ寝られないという状況から脱しました。
もし当時、アルコール依存症であるという診断を受け、なにがしかの依存症脱出プログラムに参加していたら、私の自己認識は「アルコール依存症の治療を要する人」というものになっており、そこから立ち直れたかどうか定かではありません。また、今の家庭があったかどうかはもうわかりません。
月並みな言葉ですが、将来への不安と、酒宴の楽しさ、両方に苛まれ、喜ばせられながらただただ飲んでいたあの頃。戻りたいかと言われれば、今はそう思わないと言えるのですが、あの時出会った人々や、酒の席の気軽さが生んだ縁、また彼らと研いだ思考、それらは酩酊の霧の奥にあり、全て思い出されるものではありませんがあの時期があったから今があるとも言えることだし、確かに私の時間であり、それ故に無かったことには出来ない。そう思っています。
私の過去の、障害と名が付けられたであろう、私のアルコール依存歴についてお話ししました。
さて、これはあなたの人生において、絶対に起こらないことと言い切れるでしょうか。
略歴
1981年、鹿児島県産まれ。
宇都宮大学教育学部国語科教育八年満期退学
「東京に行け」との高校の恩師の言葉を独自解釈し北関東に進学。
修辞学、哲学、文学、芸術、音楽、サブカルチャー等乱学。
効率、生産性ばかり喧伝する文化の痩せた世の中になった2008年ごろ、気づいた頃には相対的に無頼派となっており、覚悟し流れ流れて福祉業界に。
知的障害者支援、重度訪問介護、などに従事。
「能(よ)く生きる」ことを追求している。
友愛学園成人部職場会会長