—私にとって『福祉』とは幼い頃より身近なものでした。
何故かというと、私の父方の親戚がダウン症や知的障害の方たちを就業支援する所謂コミュニティハウスを経営していたからです。また、自宅の近所に事業所があった為そこで休憩中など合間にダンスを踊ったり、ミニゲームをしてよく遊んでもらったのを今でもよく覚えています。なお、中学生時代の職業見学はその影響か何となくではありますが老人ホームを選択し、レクリエーションを通してご利用者の方々と触れ合うことができ貴重な経験となりました。そして、私が高校生になると母方の親戚が訪問介護サービスの事業所を立ち上げ、あの頃より成長した自分にとって福祉とは何か、と今まであまりに自然で漠然としたものが明確になった瞬間となったのです。
それでも四年制大学に進学した私には福祉とは別の将来の夢があり、日々の生活からコミュニティハウスや訪問介護サービスと疎遠になったことで、目に見えない何か膜のようなものができそれは異質なものとなっていきました。
そんなとき転機が訪れたのは大学3回生の春。父方の畳屋を営んでいた職人気質な祖父が仕事中にくも膜下出血で倒れたのです。これまで普通に両祖父母が健在だった私はこの事態に少なからず動揺しました。大学の履修も終盤を迎え本格的に就職活動を控える時期でしたし、祖父の余命宣告は心にくるものがありました。とはいえ私の生活に変化があったかと言えば、祖父が要介護の麻痺は残ったものの在宅に戻ったこともありすぐに日常へとなっていきました。
大学の選択科目の課題で【自分の苗字の意味、歴史】を調べる際は祖父の家に行き、祖母やたまたまいらっしゃってた祖母のご友人とも一緒に色んな話を聞かせてもらい久しぶりの会話を楽しみました。そのとき、ふと祖父の座っているそばに数枚の画用紙やお面の工作が目に入り「おじいちゃん、これなぁに?」と聞くと「あぁ、デイサービスで作ったやつだよ」と教えくれて、私は改めて祖父が作ったというその作品たちをみて出来ばえは関係なしにすごく素敵なものに見えたのでした。そして、私の将来の進路をたしかに変えたあのワンシーンーーーある日の帰路の途中。祖父の家を通りかかった際、庭に停まったバンから降りる遠目からでもわかる元気そうな挨拶で笑顔が気持ちいいヘルパーさんと共にいる祖父を見かけたのです。その翌年の春、最期は病院で祖父は息を引き取りました。
私は祖父の家の近所に住んでいながら、大学生活やアルバイトに忙殺されて…などと言い訳し、余命僅かな祖父とあまり関わっていかなかったことを激しく後悔しました。それと同時に私がそばにいなかった分も祖父に寄り添ってくださったヘルパーさんに感謝し、私も祖父にできなかった分を誰かにかえしたいと思ったのです。
それが介護福祉士となった私の原点—
あれから十数年経ったいまも私は介護をつづけています。