利用者・加藤拓の経験”知”

加藤 拓


第21回 意識しない差別、黙認されてきた不平等

私はほぼ毎日スーパーで買い物をしているが、今年に入ってから物価が上がっているのを肌で感じる機会が増えた。表示される価格が上がったり中身が減ったりしたものがとても多いからだ。逆に、すごく安くてお得な商品を見つけると、嬉しいが心のどこかで「なぜこんなに安いのだろう?何か理由でもあるのだろうか?」と疑ってしまう自分がいる。値段が安いことも大切ではあるが、価値に見合った値段で販売することが、生産者にも消費者にも、ひいては社会にとって良いことなのだろう。わかってはいるのだが、一消費者としてできるだけ安いものを探したいという気持ちがあることも否定はできない。

価値に見合うといえば、最近、自身の仕事の価値について考えることがある。以前にも書いているが、介護研修講師やコラムの連載に加えて、地元社協を窓口として地域の学校や団体から授業や研修を請け負っている。多くは学校からだが、公共施設や交通事業者などからも依頼が来るようになった。目的は障害当事者の生活や思いを聞き、学びを深めたり業務に活かしたりすることだ。その中で、まれにではあるが「謝金なしで頼めないか」という案件がある。私が若い頃は自身の研鑽のためと考えて引き受けたこともあった。昨年も地元の公共ホールから職員向け研修の依頼があり、次年度の継続開催と謝金の用意を条件に無償で引き受けたのだ。しかし、次年度も引き続き無償で依頼してきたため約束が違うと断った。そのような経験もあり、最近は無償での依頼は断るようにしている。現代社会において最も金がかかるのは「人を呼んで何かをしてもらうこと」であるはずだが、なぜそんな「無茶な」依頼があるのだろうか。

原因は2つあると考えている。1つ目は、ボランティアという言葉をはき違えていることだ。日本では、ボランティアといえば“社会のための無償の奉仕活動”と考えられることが多い。私の活動はみんなのため、社会のためというニュアンスを強く帯びているため、ボランティア活動だと日本流に解釈され、無償で依頼できると考えられてしまうのだろう。しかし、ボランティアという言葉の語源はラテン語の「voluntas(ボランタス)」で自由意志という意味だ。それが中世ヨーロッパでは自警団や志願兵という意味に変わり、現在では「自発的に活動すること」という意味になっているが、無償で行うというニュアンスは全くない。必ず現地で事前の打ち合わせを行う正式な授業や研修を、私が交通費を負担してまで引き受けなければならない道理はない。百歩譲って私自身は無償で引き受けても構わないが、今まで有償で引き受けてきた依頼主に説明できないうえ、その依頼を無償で引き受けたという前例を作ってしまう。すると、私以外の誰かに対しても無償で引き受けるべきという圧力がかかりかねない。理念がどれだけ素晴らしくても、それでは結果的に引き受ける人は減ってしまうだろう。多くの人が関わることが好ましいみんなのための活動であればこそ、ゲストには相応の謝礼があって然るべきではないだろうか。

2つ目は、社会の奥底に染みついている“不平等”な発想である。私は、誰にも能力を発揮する機会があり、同じことをしたら同じだけ評価され、やりがいや居場所がある社会こそ平等だと思っている。だが、実際にはそうはなっていない。あまり考えたくはないが、私への無償の依頼がなくならないことと、私が大きな所属先を持たない障害者であることは、おそらく無関係ではないだろう。正式な授業や研修において、障害当事者だからこそ説得力を持つことを語っても評価されない理由は、他に思い当たらない。これまでは仕方ないと考える当事者も多かったのかもしれない。だが、今のままでは本当の意味での平等な社会は実現できないのだ。それにもかかわらず、授業や研修を引き受ける際に「責任を持ちたくないから謝礼は要らない」という当事者もいる。個人的には著しく不適切な態度だと感じる。責任を持ちたくないならそもそも引き受けるべきではないし、自身の経験と技術を安売りしてしまっては、当事者の活動の価値は一向に上がっていかないからだ。

もちろん、評価されるためには当事者側にも努力が必要なことは言うまでもない。依頼を引き受けるからには依頼者の希望をきちんと把握し、自身の知識と経験を活かして目的達成に資する働きをしなければならない。私もこの連載を始めてから、月に1回程度ではあるが図書館に行って読書をする習慣が身についた。原稿料をもらって書いている以上、それに恥じない内容のコラムを提供しなければという気持ちゆえのことである。授業や研修に関しても、新しい現場に出向いたり色々な人の話を聞いたりして学び続けていくつもりだ。

私は、授業や研修を担当することで多額の報酬を得たいわけではない。複数の収入源があり、なんとか生活はできているからだ。ただ、私の活動が子ども達の学びや受講者の今後の業務にプラスになったのなら、相応の評価をしてほしいとは思っている。私や仲間の活動がきちんと評価されることは、たとえ障害があっても病を得ても、社会とつながるだけでなく活躍できると示すことになるのだ。そのような価値観が定着してこそ、多くの人が自身の能力を活かし、やりがいと居場所を見つけられる平等な社会へと近づいていくのではないだろうか。今回のコラムを通して、私の活動の先にある夢は、実はとてつもなく大きいことに気づいた。障害当事者の地道な努力が人々の意識と社会を変え法律や支援制度が整備されてきたように、私の活動もまた次世代の礎となると信じて、愚直に続けていくのみである。

加藤拓(かとう たく)
1983年生まれ。生まれつき脳性麻痺による身体障害者で、現在は毎日ヘルパーのケアを受けながら、「皆で考えてつくる医療と介護」をモットーに、講演活動やワークショップの開催を続けている。2020年7月からはヘルパー向けの研修講師も担当している。 趣味はゲームと鉄道に乗ること。

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