第33回 挑戦、経験、タイミング
幾度となく書いているが、私は野球を見るのが好きだ。プロ野球のチームはずっと変わっていないように見えて、実は少しずつ変わっている。
1993年シーズンから、「大洋ホエールズ」が「横浜ベイスターズ」に変わった。当時私は子どもだったため、すんなりと変更が頭に入ったが、両親はややしばらくの間ベイスターズのことを「大洋」と呼んでいて、その度に私が「横浜だよ!」と噛みついていた。
しかし、「ダイエーホークス」が2005年に「ソフトバンクホークス」に変わったことは、実はいまだに慣れない(苦笑)。「ソフトバンクってどこだっけ?」と一瞬考えて、「あぁ、ダイエーか」と納得する。誰しも子どもの頃に慣れ親しんだことはよく覚えていて、それが変わってしまうとなかなか頭に入らないということだろう。
最近、私のケアに入る複数のヘルパーから「肢体不自由の大学生の学内でのケアを担当している」という話を聞いた。しかし私にとっては、学内のケアという言い回しがそもそも耳慣れない。私の学生時代は、学内はおろか通学にも公的支援制度でのヘルパーのケアを利用できなかったからだ。そのため、通学の際は社協の有償ボランティアを募って手動の車椅子を押してもらったり、電動車椅子の付き添いをしてもらったりしていた。学内での移動は(主に男の)友人達が手伝ってくれたが、食事やトイレの介助は母に頼っていた。 出身大学には古い建物もあり全館バリアフリーではなく、受講予定の科目が階段を通らなければたどり着けない教室で開講されることもたまにあった。その場合は学務課と相談し、教室変更をお願いしていた。
履修登録の人数から教室変更が無理だった場合は、友人達や通りがかった人にお願いして(手動の)車椅子ごと持ち上げて移動させてもらった。曜日によって電動車椅子と手動の車椅子を使い分けていたのである。
また、講義を履修するにあたって成績評価のために代筆による試験を受けるかレポート提出にするかを(特に他学科の場合には)必ず先生と話し合った。
私の時代は先生の板書をノートに書いて勉強するのが主流だったため、同じクラスの友人に頼んでノートをコピーさせてもらっていた。ノートテイクのボランティアは当時からあったが、私の専攻が数学だったため、文系の学生がノートをとったら訳がわからなくなる危険性があったからだ。
そして、1年生の後期からはあらかじめ友人達と履修する授業について相談し、教室移動やノートのサポートが切れ目なく受けられるよう調整していた。ちなみに、「ノートを書いてもらうなら、女の子がいいなぁ」という、実に男子学生らしい思惑に基づき、クラスの女の友人に声をかけて仲良くなり、連絡先を”自然に”交換していたのは懐かしい思い出である(笑)。
このように、私が大学で学び教員免許を取得するという目標を達成するために、誰にどんなサポートをお願いしていけばよいのか、どんな条件交渉をするかということを、当時から自分なりに考えて実行してきたのだ。
自分で対応できること、周囲の人に手伝ってもらえば大丈夫なこと、特定の人のサポートを要することをそれぞれ洗い出して対応していく方法は、今私が外で活動するときの基本となっている。そのうえでどうしても対応が難しいことは、交渉して可能な範囲で条件を変更してもらうのだ。
学生時代の挑戦から得た経験が、今の私の仕事や活動を支えているのである。
その一方で私はサークル活動を一切しなかったため、クラスの外に友人はほとんどできなかった。 クラスの友人達とも、大学以外の場所で交流することはほぼなかった。ヘルパーや家族のサポートなしで遠出できるとは思えなかったし、挑戦する勇気もなかったからだ。
学部生の後半からはヘルパーのケアのもと飲み会に参加するようにはなったが、気の合う仲間と遊びに行こうとか、あるいは自分から気になる女の子をデートに誘ってみようという考えは浮かばなかった。
自身の行動範囲や交友関係を広げるという点では、あまり経験を積むことができなかったのだ。この点が改善され始めたのは、30代半ばになって、今一緒に活動している仲間達に背中を押されながら様々な挑戦をし始めてからだ。
学生時代に戻りたいとは思わないが、当時の私に向かって「もう少し色々な意味で“遊んで”おけよ」と囁きたい気持ちは常にある。概ね満足している学生生活の中で、唯一悔いが残るのがこの点なのである。
ここ数年の私が行動範囲をぐんぐん広げ、今夏の終わりには飛行機で札幌に行くことができたように、年齢を重ねてからでも様々な挑戦はできる。しかし、物事の経験を積むのに適した時期があることも、また事実だ。特に学生時代というのは、成人しつつも社会に出る前の猶予期間であり、挑戦できることが多く、ほぼ全ての時間を自分のために使えるとても贅沢な“瞬間”なのだ。
ただ、周囲の年長者がそれを言ったところで、学生達はなかなか実感できないことだろう。もどかしいことこの上ないが、私としては学生達にはとにかく様々なことに挑戦してほしいし、失敗を恐れないでほしい。
適切な時期の挑戦から得た経験は、必ずその後の飛躍につながるからだ。願わくは、年代問わず人々の様々な挑戦を冷笑したり突き放したりすることなく、あたたかく応援するような社会であってほしいものである。
そして私は私なりに、今とこれからできることに対して臆せず挑戦していきたい。
加藤拓(かとう たく)
1983年生まれ。生まれつき脳性麻痺による身体障害者で、現在は毎日ヘルパーのケアを受けながら、「皆で考えてつくる医療と介護」をモットーに、講演活動やワークショップの開催を続けている。
2020年7月からはヘルパー向けの研修講師も担当している。 趣味はゲームと鉄道に乗ること。