「地域のお祭りでバンド演奏してみよう」という発想がどこから生まれたのか、今ではあまり覚えていません。
私は考え込む性格なので積み木をひとつずつ積んでいくように考えて考えて導きだした結論だったかもしれません。しかし、半分は思いつきや直感のようなものに突き動かされて見切り発車したところもあります。
これまで人前で演奏した経験がなかったばかりか、楽器をやったことすらもない人間が急にLIVEをする!と言い出し、その数ヶ月後には実際に小さなお祭りではありますがステージで演奏することになるのですから蛮勇というのか、向こう見ずというのか、まわりにとってはよい迷惑だったかもしれませんね。
バンドというのはひとりではできないので協力してくれる人たちが周囲にいてくれたことは感謝以外のなにものでもありません。
幸いなことに優秀なメロディーメーカーがいて(手前味噌ですみません)、楽器ができる人が何人かいたので成立しているのだと思います。私は勝手に詞を作り、その詞にメロディーを付けてもらい、出来上がった音楽をみんなで練習して地域のお祭りやイベントで演奏するのがひとつの流れになりました。
さて、ここで大きな問題があります。言い出しっぺの当の本人が楽器をまったく演奏できないのです。
『楽器ができるからバンドを組むのではなくて、バンドを組むことが決まってるから楽器を習うのである』という寺山修司ばりの無茶苦茶なことを自分に言い聞かせてまずは何をやるかを決めました。
あまり複雑なことは難しいので叩く、振るといった単純な動きであることを加味して打楽器がいいだろうと思いました。もちろん打楽器をなめているわけではなくて、叩く=音が出るというシンプルなものがよく、指を細かく動かすという巧知性を求められるものは自分には難しいという判断をしたからです。多くの種類の打楽器の中から算盤をはじき、持ち運びの容易さやシンプルでいながら表現の幅もある機能性を考えて最終的には南米のカホンという箱形の楽器を選びました。
楽器が決まったら次はカホンを教えてくれる人を探しました。そしてカホンの先生を見つけて練習に通い詰めました。
イベントで演奏するのは5曲。
「先生、難しいことはできないのでこの5曲ができればいいです。」
「他の曲ができなくてもいいんですか?」
「はい、大丈夫です。とにかく短時間でギリギリでいいので演奏できるレベルにしてください」と頼み込みました。
「基礎はいりません」と言うと先生は分かったと言いつつ「ただ、本当の基礎の基礎だけはやりましょう」と言いました。
ホワイトボードを持ってきてリズム符を書きながら「これが8ビートで、これが16ビートです」と教えてくれますが、これがさっぱり分かりません。いや、頭では分かるのですが手がついていきません。先生も考えていたよりもハードルを下げないと駄目だということに気付いたようで「8ビートはドンタ、ドンタです。16ビートはドンタドンドンタですよ。さあ、やってみてください」
「ドンタドンタドンですか」
「違う、ドンタドンドンタです」
伝統芸能の口伝のようになってきました。言われたとおりやろうとするけれども体が動きません。
家や公園や川原でも練習を続けました。こうしてイベントで演奏する曲を先生がやるように丸暗記していき、なんとか様になってきたのですがその覚え方が新たな問題を生むことになるのです。
バンドというのは練習で実際に演奏しながら「ここは音数を減らそう」とか「徐々に盛り上げていこう」とかアレンジしてみんなで曲を作り上げていくまさに生モノを扱う作業をするのですが(やってみて知りました)、私は教えられた通りにしかできないので「こうアレンジして」とオーダーされても「ごめん、できない」と断るしかないのです。申し訳ないのですが、どうにもできないのでそういうものだと他のメンバーには納得してもらうしかありませんでした。
とにかくバンドのリーダーが一番楽器ができません。柔軟性がなく、足を引っ張る存在であり、まわりが気をつかってくれているのです。「わたしの」はそんなバンドです(どんなバンドだ)。
さてさて、それでも音楽を演奏してLIVEがしたいというのはなぜなのか?答えは2つあって、詞に音楽を付けたり、メンバーで顔をつき合わせてあーだこーだ言いながら練習するそのプロセスが楽しいからというのが1つです。もう1つはやはり、伝えたいことがあるということですね。
そうこうしているうちにいよいよLIVE の日がやって参りましたが…。
遠回りしていたらここでお時間となりました。つづきはまた次回とさせていただきます。
つづく。
【プロフィール】
「わたしの」
1979年生まれ。山梨県出身。
学生時代は『更級日記』、川端康成、坂口安吾などの国文学を学び、卒後は知的障害者支援に関わる。
2017年、組織の枠を緩やかに越えた取り組みとして「わたしの」を開始。
「愛着と関係性」を中心テーマにした曲を作り、地域のイベントなどで細々とLIVE 活動を続けている。
音楽活動の他、動画の制作や「類人猿の読書会」の開催など、哲学のアウトプットの方法を常に模索し続けている。
♬制作曲『名前のない幽霊たちのブルース』『わたしの』『明日の風景』
Twitter
私は考え込む性格なので積み木をひとつずつ積んでいくように考えて考えて導きだした結論だったかもしれません。しかし、半分は思いつきや直感のようなものに突き動かされて見切り発車したところもあります。
これまで人前で演奏した経験がなかったばかりか、楽器をやったことすらもない人間が急にLIVEをする!と言い出し、その数ヶ月後には実際に小さなお祭りではありますがステージで演奏することになるのですから蛮勇というのか、向こう見ずというのか、まわりにとってはよい迷惑だったかもしれませんね。
バンドというのはひとりではできないので協力してくれる人たちが周囲にいてくれたことは感謝以外のなにものでもありません。
幸いなことに優秀なメロディーメーカーがいて(手前味噌ですみません)、楽器ができる人が何人かいたので成立しているのだと思います。私は勝手に詞を作り、その詞にメロディーを付けてもらい、出来上がった音楽をみんなで練習して地域のお祭りやイベントで演奏するのがひとつの流れになりました。
さて、ここで大きな問題があります。言い出しっぺの当の本人が楽器をまったく演奏できないのです。
『楽器ができるからバンドを組むのではなくて、バンドを組むことが決まってるから楽器を習うのである』という寺山修司ばりの無茶苦茶なことを自分に言い聞かせてまずは何をやるかを決めました。
あまり複雑なことは難しいので叩く、振るといった単純な動きであることを加味して打楽器がいいだろうと思いました。もちろん打楽器をなめているわけではなくて、叩く=音が出るというシンプルなものがよく、指を細かく動かすという巧知性を求められるものは自分には難しいという判断をしたからです。多くの種類の打楽器の中から算盤をはじき、持ち運びの容易さやシンプルでいながら表現の幅もある機能性を考えて最終的には南米のカホンという箱形の楽器を選びました。
楽器が決まったら次はカホンを教えてくれる人を探しました。そしてカホンの先生を見つけて練習に通い詰めました。
イベントで演奏するのは5曲。
「先生、難しいことはできないのでこの5曲ができればいいです。」
「他の曲ができなくてもいいんですか?」
「はい、大丈夫です。とにかく短時間でギリギリでいいので演奏できるレベルにしてください」と頼み込みました。
「基礎はいりません」と言うと先生は分かったと言いつつ「ただ、本当の基礎の基礎だけはやりましょう」と言いました。
ホワイトボードを持ってきてリズム符を書きながら「これが8ビートで、これが16ビートです」と教えてくれますが、これがさっぱり分かりません。いや、頭では分かるのですが手がついていきません。先生も考えていたよりもハードルを下げないと駄目だということに気付いたようで「8ビートはドンタ、ドンタです。16ビートはドンタドンドンタですよ。さあ、やってみてください」
「ドンタドンタドンですか」
「違う、ドンタドンドンタです」
伝統芸能の口伝のようになってきました。言われたとおりやろうとするけれども体が動きません。
家や公園や川原でも練習を続けました。こうしてイベントで演奏する曲を先生がやるように丸暗記していき、なんとか様になってきたのですがその覚え方が新たな問題を生むことになるのです。
バンドというのは練習で実際に演奏しながら「ここは音数を減らそう」とか「徐々に盛り上げていこう」とかアレンジしてみんなで曲を作り上げていくまさに生モノを扱う作業をするのですが(やってみて知りました)、私は教えられた通りにしかできないので「こうアレンジして」とオーダーされても「ごめん、できない」と断るしかないのです。申し訳ないのですが、どうにもできないのでそういうものだと他のメンバーには納得してもらうしかありませんでした。
とにかくバンドのリーダーが一番楽器ができません。柔軟性がなく、足を引っ張る存在であり、まわりが気をつかってくれているのです。「わたしの」はそんなバンドです(どんなバンドだ)。
さてさて、それでも音楽を演奏してLIVEがしたいというのはなぜなのか?答えは2つあって、詞に音楽を付けたり、メンバーで顔をつき合わせてあーだこーだ言いながら練習するそのプロセスが楽しいからというのが1つです。もう1つはやはり、伝えたいことがあるということですね。
そうこうしているうちにいよいよLIVE の日がやって参りましたが…。
遠回りしていたらここでお時間となりました。つづきはまた次回とさせていただきます。
つづく。
【プロフィール】
「わたしの」
1979年生まれ。山梨県出身。
学生時代は『更級日記』、川端康成、坂口安吾などの国文学を学び、卒後は知的障害者支援に関わる。
2017年、組織の枠を緩やかに越えた取り組みとして「わたしの」を開始。
「愛着と関係性」を中心テーマにした曲を作り、地域のイベントなどで細々とLIVE 活動を続けている。
音楽活動の他、動画の制作や「類人猿の読書会」の開催など、哲学のアウトプットの方法を常に模索し続けている。
♬制作曲『名前のない幽霊たちのブルース』『わたしの』『明日の風景』