介護のお仕事から学んだこと 生きること、なまなましい生活を重ねることそのものに命懸けなのだ

介護のお仕事から学んだこと 生きること、なまなましい生活を重ねることそのものに命懸けなのだ

佐々木 優



私が介護に携わって、短いのか長いのか、6年が過ぎました。調べてみると、平均よりほんの少しだけ長く続けられているそうです。平均的な勤続年数を経たので、ちょっとだけ分かったようなことを言うことをお許しいただければと思います。

 結論として、この仕事から学んだことと言えば、サービスの提供者であるならば、「本人主体」を極めて重要視することが肝要ということ。欲を言えば、たとえそれがいかなる業種、職種であったとしても。

   例えば、私はよく外食をしますが、ぶらっと入ったお店が色々な部分でハズレだったとしても、店主をつかまえていちいちクレームは言いません。お店で何かアテが外れた買い物をしたことに気付いても、わざわざ購入したお店まで戻って返品させろとは言いません。なので、価格の提示のないガソリンスタンドで、よそより少し割高な請求をされたとしても涼しい顔で支払います。奇麗な夕焼けが観たくて双海町の海岸をめざした挙句に、ちょうど現地が曇っていたとしても、空を見上げて高木ブーに文句を言ったりしません。

 しかし、介護現場においては、しばしばサービス利用者から様々な要望、苦情をお受けすることがあります。それはなぜか。彼らは生きること、なまなましい生活を重ねることそのものに命懸けなのだと私は捉えています。私は必死な思いで外食したり、買い物をしたり、ドライブをしたりはしていません。しかし彼らは必死なのだと感じています。
 高齢で何もかもが不自由になってくる。突然の障がいによる絶望のなか、生活のしづらさ、否定、拒絶、偏見、差別のなかにあって、それでも命懸けで生きることの過酷さ。

 外出できることが稀で、6畳一間の空間が、彼らにとっての世界の全てであったりする。もしそうなのであれば、我々のサービスである一挙手一投足、言葉、表情を批評することが、自分が生きていることを日々確かめる、数少ない手段なのかもしれないということ。

 介護というサービスは、その生産と消費が同時に行われるところに特徴があります。いうなれば、サービスの在庫ができないということです。もっと言えば、サービスを受けた証が後にほとんど残らないということです。なので、このサービスの出来栄えについて、第三者による良し悪しの判断もそうそう簡単ではありません。すなわち、サービスに対する評価は、受け手である本人に委ねるほかありません。だから「本人主体」を私は重要視するのです。命懸けで生きようとする者に、手前勝手な効率やありがた迷惑を押し売りすることとの愚かさを、度々感じてきた経験から得た私なりの答えです。

 それでも、私の介護経験はたかだか6年程度なので、これからもっと深く気付かされることがきっとあるのでしょうね。