新型コロナウイルスと私たち  朝が来ない夜はない

新型コロナウイルスと私たち  朝が来ない夜はない

板橋克



スマホでオンラインでの買い物が当たり前になったこの頃、購入決定ボタンを押す前やアプリのインストールなど、日常的に何らかの「承認」を求められる。 「日常」あり得ない事象が起こる場合を想定して定める免責条項 。

まぁ字が細かいし正直あまり気にも留めない。「例外事項など現実的に起こりえない」と勝手に高を括る。しかし震災、津波、ウィルスなど天災はもちろん、人災に至るまで考えてみると私たちの生活はあまたの脅威に囲まれている。
コロナウィルスという目に見えない敵。見えないから小さいのではなく、100年前、世界人口の平均寿命に大きな影響を与えたパンデミックが突然眼前に立ちはだかる。

五輪が延期され、学校だけでなく職場が自宅待機、交流が制限される。お洒落な喫茶店、飲食店が次々閉店となり、また、つい先日まで採用難で大量採用を謳っていた運輸業界で大量解雇が始まる。数日前、家族が観ていたTV番組の真ん中にいた方が、あっという間に病魔に侵され症状が進行、帰らぬ人に。
日常が一気に、待ったなしにひっくり返る。まるでオセロゲームのように。時代を選べずに生まれてきた私たちは「平時」も「有事」も選べず、ただ時代に向き合い乗り越えていくことを求められている。

当世の主人公である私たちにとって、何が核心か?環境い「何も起こらないこと」を願うのではなく、自分自身が「何が起こっても後悔しない」生き方を選択したい。
対処する方法の一つは「過去から学ぶこと」。いつ命が奪われても後悔がないか?どんな覚悟で日々生きていくのか。

朝が来ない夜はない、と言う。
不安な夜は、その時間が永遠のように感じられ、出口のないトンネルの中で息苦しさを感じるもの。
自分で選ぶことができない時代や環境を乗り越え、過去積み重ねた「経験」「歴史」を糧にいかに使命と天命を全うするか。
新型コロナ」という天敵は、私たち人類に生きる意味と価値を考える機会を突き付けている。

「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。」
マタイによる福音書16章26節



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