人たらしのススメ – 福祉歓待論

深田耕一郎



差別解消法時代
 障害者差別解消法が2016年4月に施行された。この法律は障害を理由とする差別の解消を目的としている。障害の有無にかかわらず、どんな人でも等しく社会参加の機会が保障されなければならない。みんな同じスタートラインに立とう。それがこの法律の趣旨だ。

ということは、将来的には、障害を理由にした差別はなくなるわけだ。差別の解消を求めて声をあげる必要もない社会が到来するということだろう。もちろん、そんな社会はすぐには実現しないが、目指すべき理想はそうだといえる。

ところで、声をあげる必要の無い社会は合理的でコスパがよい。しかし、それはほんとうに豊かな社会なのだろうか。差別は無いほうがいいに決まっている。でも、あまり何でもかんでもお膳立てされた社会は楽しいだろうか。もしかしたら、みんな「お客さま」化した平板な社会になってしまわないか。合理的配慮が保障されても、人と人との「関係」はずっと問われ続けるのではないか。障害があれば、その「関係づくり」はなおのことだ。

みんな同じスタートラインに立つ社会は、だからこそ、それぞれが声を発して自分の輝きを放つことができる社会であったほうがおもしろい。であれば、これからいっそう、人と人との関係の「豊かさ」、関係の「実質」が問われる。そんなことを考えると、差別解消法の施行は、ゴールではなく、スタートだ。

人たらしの達人
 私は学生だった2004年頃から障害を持つ人の介護をはじめた。2005年8月からは新田勲さんの介護にかかわった。新田さんは1940(昭和15)年生まれの脳性麻痺者で、障害者の介護保障の実現に取り組んだ人物だ。私は彼が亡くなる2013年まで介護に入った。その傍ら、見聞きしたことを「フィールドノート」と称して記録した。そのいくつかは拙著『福祉と贈与』に書いたが、書いていない部分も多い。ここでは久しぶりに「フィールドノート」を紐解いてみよう。

 新田さんは人間関係の達人で、すけべだった。すけべといっても、セクシュアルな意味ではなく、「ヒューマニスティックなすけべ」とでもいうか、「人たらし」といってもいい。自分は介護を受ける側なのに、相手をよろこばせることに一生懸命だった。いいかえると、サービスの「お客さま」ではなかった。自分が「お客さま」になることを拒んでいた。

誰もが彼のようになれるわけでも、なったほうがよいわけでもない。でも、そこには制度化された福祉からははみ出るような、しかし忘れてはならない何かがある気がする。そんなエピソードを紹介しよう。

十条銀座の歓待
 新田さんは東京の北区に住んでいて、近所の十条銀座商店街によく買い物に出かけた。左手の指先がわずかに動いたので、電動車椅子を操作して外出していた。ぶっ飛ばす電動車椅子の後ろを介護者が自転車で追いかける。商店街の裏道をよく知っていて縦横無尽に進んだ。特に閉店前のお店を見計らったようにまわって行く。割引がはじまるからだ。八百屋、魚屋、肉屋、揚げ物屋、和菓子屋…。十条銀座の魚屋での風景だ。

魚屋の店主が新田さんを見て「お、ひさしぶりだねぇ」と親しげな声で接しながら、「これももっていきな」と鮭フレークの缶詰や干物を次から次に袋につめていく。新田さんも「うなぎ5枚」とか「さんま5匹」とか例によって豪快に指さしていく。明太子やタコやカレイやハマグリや、こちらがいって注文したりあちらが勝手に袋につめてくれたり。そんな袋をもちながら「じゃ、4,000円でいいや」と。店主が新田さんの車椅子のバッグを指差して「いっぱい(お金)入ってんでしょ」というと新田さんは店主の腕をたたきながら「ないない」と笑っている。(2006年2月11日)

 新田さんは言語障害が重く、言葉も発せられない。それなのに店主と直接やりとりをしていた。身体も思うように動かない。けれども、わずかに動く指先で、目当ての商品を指さし、手のひらで欲しい数を示した。店主がそれを読み取って「はい、これね」と選ぶ。そして、支払いまでやっていた。他の店でもそうだった。

十条銀座の人たちは、おそらく誰も新田さんの固有名は知らないし、どのような人かも知らない。でも、差別解消法も合理的配慮もそんな言葉もない時代から、彼らは車椅子に乗ったその人とのつきあい方はよく知っていた。関係の「実質」をつくっていた。

買い物をした日は電動車椅子の後ろにひっくり返りそうなくらい買い物袋をぶら下げて帰った。サンタクロースのようだから、ある人が「新田サンタ」と呼んでいた。買い物が好きだったのだろうが、商店街の人たちとのやりとりも好きだったのだろう。新田さんにはお店の人をよろこばせたいという雰囲気もあった。だから、あんなにたくさん買っていたのだろうか。お客さんなのに、お店の人をよろこばせたかったのだ。

他者のよろこびが自己のよろこび
こうやって大量に買ってきて、妻や娘や介護者にたくさん食べさせた。新田家の食事は、交代前と後の介護者も一緒に食べたのでいつも山のように料理が並んだ。介護者が満腹そうにしていると、「もっと食え」というのが新田さんの口癖だった。食後には「甘いもの」がよく出た。最後はかならずみんなでバナナを食べた。

家に来る人をすべて歓待していた。介護者に対してまでも、もてなしているところがあった。それでいて不思議と「見返り」を求める感じでもなかった。「ギブアンドテイク」や「ウィンウィン」とも違った。ふつう「こうしてあげたんだから、こうしてくれ」といいがちだ。「与える」ことは、人の立場を優越的にし、相手を支配する力になるからだ。でも、新田さんの場合、ただ歓待がしたいようだった。

とはいえ、それだけですまないところが、人たらしたるゆえんだ。新田さんはいちおう障害者だったので、宗教家がときどき勧誘にやってきた。宗教家もお茶と和菓子でもてなした。最初、宗教家が熱く教えを語りだす。あれこれ会話しているうちに、形勢が逆転して新田さんの「福祉活動」の話題になっていく。すると突如「これ、よかったら」なんて、当時、出版したばかりの自著『足文字は叫ぶ!』をさしだす。宗教家は「これはすごい!おいくらですか?」と驚いて購入していた(2009年8月22日)。思わず本が売れてニヤニヤ笑う新田さん。こんな形勢逆転劇が、介護保険の要介護認定の調査員のときもよくあった。

他者をよろこばせて、そのよろこんだ拍子で自分もよろこびたいという気があるようだった。お返しの「義務」とか「無理やり」ではなく、相手がよろこんでそうしたい、みたいな雰囲気をつくりだしていた。そんなかかわりが「すけべ」で「人たらし」だと思った。

歓待の相互性
運動の活動費を捻出するためによく巣鴨などで街頭カンパもやっていた。新田さんは金銭をもらう側なのに、そこでも歓待している感じがあった。こうべを垂れていると「いろんな人と話す」らしかった。特に家族に障害を持つ人なんかが「20歳になって突然身体が動かなくなった娘がいる」と話しかけてきて彼の手を握った。すると、金銭を与えてもらっているのは新田さんなのに、その人に勇気を与えているのも新田さんだったりしたわけだ。「カンパはお金のやりとりだけでなく、社会との会話」ともいっていた(2009年1月3日)。

 さて、差別解消法施行後の時代に、どのような関係の「実質」が求められるか、新田さんの「人たらし」からヒントを得られないかと考えた。誰にでもできることではないだろうが、 福祉の受け手の立場にあっても、相手を歓待するという姿勢がある。福祉の受け手でもあり与え手でもある関係を生きること。それをお互いがお互いさまとして実践すること。そうした相互的な「歓待する福祉」が新田さんのめざす福祉だったのだろう。これは制度が整備されても、人と人とのあいだで求められるひとつの関係だろう。こうした、すけべで人たらしの関係が、社会を豊かにおもしろくすると私は思う。人たらしのススメ。

【略歴】 女子栄養大学専任講師。
著書に『福祉と贈与――全身性障害者・新田勲と介護者たち』(生活書院、2013年)など。

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