変化を愉しむことについて

石井 健太


かつてフランスの作家カミュは夭折こそが最も不幸なことであるといったようなことを言っていたと記憶している。いや、不幸ではなく不条理だったかもしれない。突如として身に降りかかる死は、たしかにそれを前にしたとき強烈な無力感を与えるものである。
なぜだ?どうしてだ?というその無力感の中にやるせない激情が去来することもあるだろう。そしてそれはいつも唐突に訪れ、私たちが費やし、積み重ねてきたあらゆる時間の連続性を一瞬に断ち切ってしまう。あろうことか、カミュ自身、交通事故によって突然にこの世を去ってしまった。
私たちが生きているこの世界はいかにも不条理に満ち溢れているように見える。
心の平穏や安らぎは、安定した調和の中にあるように感じて、ひたすらにそこを目指し、求め、それでも変化せざるを得ないことで人々は疲弊し、世界の回る速度にただ身を委ね、暗い海の中を漂うくらげのように心を閉ざし、または、仰々しく何重にも組み立てられた無機質な鉄の鎧で心を囲ってしまう。
しかし、今現に生きているこの何ものにも代え難い時空間において少なくとも私は、いつやってくるかもわからない死に向かいながらも生の限りを尽くしたいと思う。

この世界に存在するあらゆる物は運動しながら自らを構成していることを考えてみてほしい。
量子物理学的な世界では、ごくごく小さな物質を構成しているその要素は、くっついたり、ぶつかりあったり、互いの力で反発したりしながら、どうも不規則運動をしているのではないかという説がある。その運動はまるで意思を持っているかのように自由で、生き生きとしているように感じないだろうか。
万物は運動している。つまり常に変化している。そして変化の中でそれぞれの人間は構成され、しかも、なぜかたまたま同じものが一つもない自己として私たちはこの世界で生きている。
古代ギリシャの人々は人間の自由な思考を存分に発揮し、人間的な想像力の源と言っても良い数々の豊かな思想を産み出している。それらは私たちの世界の見方、捉え方の礎として今もどこか新鮮な驚きを与えてくれる。
その一人にヘラクレイトスという人がいる。
彼は後の人に、万物は流転すると言った、と伝えられている。彼の主張するところによると、世界は絶え間ない変化とその闘争によって構成されており、彼はその象徴として火を想定し万物の根源として捉えていたらしい。
周囲を巻き込みながら一瞬に燃え上がり、そして次の瞬間には元の場所からは消え去り、別の場所へと燃え広がっていく炎のその様は、まさに絶え間ない変化と闘争を表していると彼は考えたのだろう。
万物の根源が火であるというのは、現代の科学的知見から見ると感覚的であまりにも前時代な幼稚な主張に映るかもしれない。しかしその考え方や生的な感性にはとてもダイナミックな意志を感じないだろうか。

私たちの仕事は常に変化し、昨日までなんの問題もなく行っていた対応が今日は全く通用しないということもままあるような動的なものである。
元来人間は静的な生き物ではなく、生理学的にも常に絶え間なく運動しているのだから、実は変化するのは当然のことであるにもかかわらず、変化に直面して戸惑うだけでなく、どうしても変わらない、安定した状態をどこかで求めてしまっていないだろうか。
もちろん、安定させることは重要である。介護の仕事の大部分は安定的で持続的な活動を支えることにあると言っても良いと私は考えている。しかしそれは不変をもたらすことではない。利用者の求めることは程度の差こそあれ、いつも少なからず変化しているはずである。
その時々で感じていることや、その微妙な度合いに応じて求めることも当然都度変わって行き、毎回その時限りの要求に対応することが求められているとしか思えない場面に個人的にも何度か出くわしてきた。その変化に気づき、変化に対していかに動的に対応できるか、現在の私がどこまで出来ているかはさておき、目標として、そのことを常に心掛けて仕事に取り組みたいと私は考えている。
その中で、私自身常に変化していくことだろう。もちろん、うまくいくこともあればうまくいかないこともあるだろうし、途方に暮れることもあるだろう。しかし、どこかで変化を楽しんでいる自分がいるのも確かである。万物の流転に能動的に身を委ね、変化という発火点を携え、周囲を巻き込みダイナミックな運動を続けることこそ、生の限りを尽くすことに繋がるはずである。

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