「稀有な共生家族を生きてきた節目に(2) 〜パートナーシップの始まりの頃〜」
私は、かつて障害を持つ連れ合いとパートナーシップを持っていた。
しかし、さまざまな経緯があって、別れを選択することとなった。
その選択を選ぶことには大変大きな葛藤があった。
今回はそのパートナーシップの始まりについて、少し綴らせていただきたい。
私のかつてのパートナーの安積(あさか)は、現在、この土屋訪問サイトの中で連載もしている。
安積と共に暮らす日々は、葛藤の連続があった。
「個人的なことは社会的なこと」とは、フェミニズムの文脈などでよく言われることだが、
まさに、社会的な葛藤をかなりの強度を持って体験するパートナーシップであった。
私は「癒しのセクシートリップ」という安積の自伝を学生時代に読み、
赤裸々に自らの体験を語り明かしているその姿勢に感銘を受けた。
私は私のことをそのように語り出すということなど、当時は考えられなかったし、
第一、自分自身に自信がなく、悩める青年であるという風であった。
安積が非常に厳しい人生を生きてきたその一端は、
最初の記事にも少々書かせていただいたし、
安積自身の文章にも折々綴られている。
その厳しい、辛さの深い人生を、
燃える炎の如く生ききっている姿に感銘を覚え、
安積の講演会を聞きに行ったことが出会いとなった。
彼女は車イスユーザーであること、障害を持つこと自分のあり方を存分に生かす人なので、
すぐに人に手を借り、また介助者を募っていく。
その時の私も、すぐに車イスの押し手としてリクルートされ、
喜んで介助のボランティアをするようになった。
彼女は16〜7歳年上で、
私にとって尊敬する先達であったので、
そのように関わっていたのだが、
男女としての付き合いを提案され、
半年ほど、どうすべきか私は悩むこととなった。
当時私は、「日本の教育を変えたい、学校を作りたい」
といったとんでもなく大きく無謀な願いを抱えていたので、
自分の現状の力の無さとの間に埋めがたいギャップを痛感し、
実力をつけるため必死であった。
その意味では、安積はすでに様々な人生体験を持ち、
私が進むべき道のりの先達のような、同伴者のような存在としては申し分なく、
考えた末に、パートナーシップを持っていくことを私も決断した。
必要な出会いは、必要な時に与えられるもの。
私にとって彼女との出会いは非常に重要なものであったが、
同時に非常に大変な修行の機会のようでもあった。
私は宗教や哲学、精神世界や輪廻転生についてなど、10代後半から深く興味を抱き、
そちら方面の探求・研鑽も必死に行っている面もあった。
一方の安積は、
“障害”を持っていると、様々な宗教団体がアプローチしてきて、
「(障害は)前世の報いだ」「親の因果が子に報い」といったこと度々言われてきていて、
宗教に痛めつけられ、深い怒りをもっていた。
私にとって非常に重要な領域が、
彼女にとって怒りを誘発される領域とほぼ重なっており、
対立や葛藤の温床だった。
その領域で、彼女と根底的なところで摩擦が生じやすいことにより、
私は安積とのパートナーシップを早い段階で無理だと思うようになった。
しかし、人生には不思議な転換点がしばしば起きるもの。
安積はそれまでの人生で、
「避妊をしなくても妊娠したことがない、自分は妊娠しない体だ」と、よく話していたのだが、
私との間で、妊娠したことが判明したのが、忘れもしない1995年10月18日だった。
青天の霹靂のように、彼女の妊娠が判明したのだが、
私は、自分の親にまだ彼女と付き合っていることを話していなかったので、
「遊歩さんの体が大変だから、介助で泊まり込んで、当分帰らない」という、
事実の半分だけを伝えて、実家を飛び出て、怒涛の主夫修行の日々が始まった。
私は当時まだ大学生で、
大学四年の秋に、家事育児介助三昧の主夫として、私の進むべき道が定まったのは、
まさに運命の鐘の音を聴く思いであった。
その頃、安積との別れを選択していたら、その後の様々な体験は生じなかったので、
娘がお腹に宿り、この世に出てきてくれたことは非常にありがたいことではあった。
体験する必要があることは、それを体験する方向へ、人生は導かれるもの。
神の見えざる手を見る思いであった。
さて、
妊娠出産の頃のことは、また密度の高い期間であったので、
次回に話を続けさせていただきたい。
お読みいただき、ありがとうございました。
連載1「稀有な共生家族を生きてきた節目に 〜“苦の中の未来”によせて〜」
【略歴】
1972年神戸生まれ。早稲田大学第一文学部卒。在学中に障害者運動の旗手の一人である安積遊歩と出会い、卒業後すぐに安積と同じ骨の弱い障害を持つ愛娘宇宙(うみ)を授かる。猛烈な家事育児介助とパートナーシップの日々は、「車イスからの宣戦布告」「女に選ばれる男たち」(共に太郎次郎社刊)に詳しい。資格持ちヘルパーとして長年介助の仕事をしながら、フリースクール運営や、Webサイト作成・システム構築業に従事。2011年の東日本大震災・原発事故以降は、「こどもみらい測定所」代表、全国の測定所のネットワークの「みんなのデータサイト」事務局長・共同代表を務め、放射能測定・対策活動に奔走。2018年初頭からユースタイルラボラトリー・土屋訪問介護事業所の社内システムエンジニアとなり、長いケア領域の経験とWeb関連技術のスキルを生かして活動中。安積とは紆余曲折の末パートナーシップを解消し、今は新家族と猫と暮らす日々。
しかし、さまざまな経緯があって、別れを選択することとなった。
その選択を選ぶことには大変大きな葛藤があった。
今回はそのパートナーシップの始まりについて、少し綴らせていただきたい。
私のかつてのパートナーの安積(あさか)は、現在、この土屋訪問サイトの中で連載もしている。
安積と共に暮らす日々は、葛藤の連続があった。
「個人的なことは社会的なこと」とは、フェミニズムの文脈などでよく言われることだが、
まさに、社会的な葛藤をかなりの強度を持って体験するパートナーシップであった。
私は「癒しのセクシートリップ」という安積の自伝を学生時代に読み、
赤裸々に自らの体験を語り明かしているその姿勢に感銘を受けた。
私は私のことをそのように語り出すということなど、当時は考えられなかったし、
第一、自分自身に自信がなく、悩める青年であるという風であった。
安積が非常に厳しい人生を生きてきたその一端は、
最初の記事にも少々書かせていただいたし、
安積自身の文章にも折々綴られている。
その厳しい、辛さの深い人生を、
燃える炎の如く生ききっている姿に感銘を覚え、
安積の講演会を聞きに行ったことが出会いとなった。
彼女は車イスユーザーであること、障害を持つこと自分のあり方を存分に生かす人なので、
すぐに人に手を借り、また介助者を募っていく。
その時の私も、すぐに車イスの押し手としてリクルートされ、
喜んで介助のボランティアをするようになった。
彼女は16〜7歳年上で、
私にとって尊敬する先達であったので、
そのように関わっていたのだが、
男女としての付き合いを提案され、
半年ほど、どうすべきか私は悩むこととなった。
当時私は、「日本の教育を変えたい、学校を作りたい」
といったとんでもなく大きく無謀な願いを抱えていたので、
自分の現状の力の無さとの間に埋めがたいギャップを痛感し、
実力をつけるため必死であった。
その意味では、安積はすでに様々な人生体験を持ち、
私が進むべき道のりの先達のような、同伴者のような存在としては申し分なく、
考えた末に、パートナーシップを持っていくことを私も決断した。
必要な出会いは、必要な時に与えられるもの。
私にとって彼女との出会いは非常に重要なものであったが、
同時に非常に大変な修行の機会のようでもあった。
私は宗教や哲学、精神世界や輪廻転生についてなど、10代後半から深く興味を抱き、
そちら方面の探求・研鑽も必死に行っている面もあった。
一方の安積は、
“障害”を持っていると、様々な宗教団体がアプローチしてきて、
「(障害は)前世の報いだ」「親の因果が子に報い」といったこと度々言われてきていて、
宗教に痛めつけられ、深い怒りをもっていた。
私にとって非常に重要な領域が、
彼女にとって怒りを誘発される領域とほぼ重なっており、
対立や葛藤の温床だった。
その領域で、彼女と根底的なところで摩擦が生じやすいことにより、
私は安積とのパートナーシップを早い段階で無理だと思うようになった。
しかし、人生には不思議な転換点がしばしば起きるもの。
安積はそれまでの人生で、
「避妊をしなくても妊娠したことがない、自分は妊娠しない体だ」と、よく話していたのだが、
私との間で、妊娠したことが判明したのが、忘れもしない1995年10月18日だった。
青天の霹靂のように、彼女の妊娠が判明したのだが、
私は、自分の親にまだ彼女と付き合っていることを話していなかったので、
「遊歩さんの体が大変だから、介助で泊まり込んで、当分帰らない」という、
事実の半分だけを伝えて、実家を飛び出て、怒涛の主夫修行の日々が始まった。
私は当時まだ大学生で、
大学四年の秋に、家事育児介助三昧の主夫として、私の進むべき道が定まったのは、
まさに運命の鐘の音を聴く思いであった。
その頃、安積との別れを選択していたら、その後の様々な体験は生じなかったので、
娘がお腹に宿り、この世に出てきてくれたことは非常にありがたいことではあった。
体験する必要があることは、それを体験する方向へ、人生は導かれるもの。
神の見えざる手を見る思いであった。
さて、
妊娠出産の頃のことは、また密度の高い期間であったので、
次回に話を続けさせていただきたい。
お読みいただき、ありがとうございました。
連載1「稀有な共生家族を生きてきた節目に 〜“苦の中の未来”によせて〜」
【略歴】
1972年神戸生まれ。早稲田大学第一文学部卒。在学中に障害者運動の旗手の一人である安積遊歩と出会い、卒業後すぐに安積と同じ骨の弱い障害を持つ愛娘宇宙(うみ)を授かる。猛烈な家事育児介助とパートナーシップの日々は、「車イスからの宣戦布告」「女に選ばれる男たち」(共に太郎次郎社刊)に詳しい。資格持ちヘルパーとして長年介助の仕事をしながら、フリースクール運営や、Webサイト作成・システム構築業に従事。2011年の東日本大震災・原発事故以降は、「こどもみらい測定所」代表、全国の測定所のネットワークの「みんなのデータサイト」事務局長・共同代表を務め、放射能測定・対策活動に奔走。2018年初頭からユースタイルラボラトリー・土屋訪問介護事業所の社内システムエンジニアとなり、長いケア領域の経験とWeb関連技術のスキルを生かして活動中。安積とは紆余曲折の末パートナーシップを解消し、今は新家族と猫と暮らす日々。