先天性の障がい者 × 健常者の組み合わせ ~畠中家離婚秘話~

畠中忠&畠中真由美



真由美)何と第二弾を書いてみないかというお話をいただきました。

畠中) それでは、あのネタを披露するしかないですね。

真由美)我々の離婚ですね。離婚して10年になるので、既にネタ扱いになっています。

畠中) 先天性の障がい者×健常者の組み合わせって、結婚するのは珍しいんじゃないですかね。介護の問題とか、収入の問題とか、愛だけでは越えられない問題が山積みだし。それにこの組み合わせは、健常者×健常者や障がい者×障がい者よりも片方に負担のかかりやすい状態だと思うんですよ。そんなこと当時は全然考えなかったですけど。

真由美)10年前にその境地に至ってほしかった…。

当時、苦しいのに何が苦しいのかもわからないくらい大変だったので、このコラムが今結婚をお考えの方や、現在進行形で悩んでいる方の参考になるといいなと思います。

畠中) ではまず始めに、ざっと我々の黒歴史の紹介を。

真由美)結婚したのは14年前になります。ちょうど今のNPO法人の前身を立ち上げた時期ですね。結婚生活は正味2年半。計算が合わないのは産後と離婚前に別居期間があるからです。娘が1人。私が育てています。畠中が29歳、私が25歳で結婚して、33歳と29歳で離婚しました。それが娘が3歳のころです。現在では娘が中学1年生になっています。

畠中) 会社はその当時からずっと2人で回しています。

真由美)仕事が一緒だし、私が名字を旧姓に戻していないこともあって、割と仲がいいみたいに思われがちなんですけど、それは外向けです(キッパリ)。離婚当初よりはぶつからなくなりましたけど。

畠中) うっ…。

真由美)仕事が同じなので、他の離婚された方よりは接点があるかなとは思いますけど、一般的な同僚っていうくらいの距離感ですね。名字を戻さなかったのは、ちょうど離婚話が出たのが娘の保育園入園直前で、そのタイミングで名字を変えるのが大変だったからです。ちなみに離婚を切り出したのは畠中からです。

畠中) 間が悪くてすみません…。あの時はもう限界だと思ったので…。このタイミングで離婚するのがベストだ、みたいな変な思い込みがあったんだよね。

真由美)私も限界だったけど、限界過ぎて離婚に踏み切る余裕もなかった感じですね。育児と家事とヘルパーの仕事と会社の事務も一手に引き受けていたので、正直当時の記憶がないです。さて、なぜ離婚したくなったのかは言い出しっぺの方からどうぞ。

畠中) 何言ってもひどい奴だと思われそう。

真由美)それは仕方ない。

畠中) 申し訳ない…。
いくつか理由はあるんですけど、そもそも自分が結婚できるなんて思ってなくて、親以外の人と生活するイメージを持っていなかったっていうのが一番目です。寮以外だと母親とずっと生活していたので、やってもらってばかりで自分から何かするっていうのが思いつきもしなかったんですよ。だから子どもが生まれても親になる感覚…言い換えれば自分が誰かを世話する感覚っていうのが全然なくて、何で嫁なのに僕のことより子どもを優先するんだろうって思っていました。自分の方が子どもよりも助けが必要なのにって思っていたんですよね。

真由美)逆に母親目線だと、子どもより自分を優先してほしいっていう感覚が理解できなくて、よく喧嘩しました。ちなみに補足ですが、畠中は脳性麻痺っていう障がいはありますけど、自分のことは自分でできる(特に日常生活で介助を必要とする状態ではない)です。彼が気に入らなかったのは、例えば、お風呂上がりに自分の服を出してもらってないとか、私が赤ちゃんの生活ペースに合わせて寝ちゃうとかそういうことです。

印象に残っているのは、仕事と育児の両立はつらいって言ったら「もっと大変な人はたくさんいる、大変なら保育園に預ければいい、自分の好きで仕事もして子どもも生んだんだから、全部ちゃんとやれ」って言われたことですね。

畠中) 我ながらひどい…。
さらに、自分は障がいがあるのに仕事して子どもまでいるんだから、健常者の彼女はもっと頑張るべきだと思っていました。妊娠中や子育て中の女性の大変さを全くわかってなかったんですね。夜中の授乳やおむつ替えも、あることは知っていましたが手伝わなかったです。よその奥さんはもっと大変なのにうちは全然だと思っていました。それから、彼女が実家に子どもについての意見を求めるのも、自分が障がい者だから軽視されると感じて不満に思っていました。

真由美)彼が、私が実家を頼るのを嫌がっているのは何となくわかっていたんですが、そういうことだったのか…。それで、散々私が悪いって言って離婚したのに、何がきっかけで考えが変わったの?

畠中) 仕事を通じていろいろなお母さんの話を聞くようになって、自分の気付いていなかった彼女の大変さがやっと理解できたのと、自分の中にある「障がいをコンプレックスだと思う心」みたいなものの存在を認められたからだと思う。それから人生経験を積んで、人の気遣いに気付けるようになったことかな。結婚中にも、さりげなくカバーしてもらっていた部分はあったと思うんだけど、今になってそうしてもらえるありがたさが身にしみるようになった。だから今はちゃんとありがとうって言えていると思う。

真由美)じゃあ、我々の結婚生活はどうすればうまくいっていたと思う?

畠中) まずは育児と家事に参加することかな。当時はゴミ出し(彼女がまとめたものを持っていく)とかをすれば俺はいい夫だと思っていたけど、その頃の自分を殴りたい。自分には障がいがあるから、それだけやれば十分だと思っていたんだよね。今になって考えれば、頭を使って障がいがあるなりに家庭に貢献することはできたと思う。足りない部分は社会的資源を使うとか、もっと彼女を追いつめないようにできたのではないかと。

それから、自分の言動や行動がおかしくないか、いろいろな人に聞いて考えるべきだった。ちゃんと話し合ってみて、自分がいかに自己中心的だったか再確認したよ…。

真由美)私は、もっと助けを求めればよかったと思っています。自分で何とかしなきゃって思いこんでしまっていたんですよね。家の中にも外にもトラブルがたくさんあって自分ではどうしようもできないのに、優等生的な部分があって、誰にも相談できなかった。体力的にも限界で、視野も狭くなっていたと思います。ちなみに私は彼について、俺様キャラが格好いいとか、九州男児(鹿児島生まれなので)はこんな感じだ、っていうのをやってみたかったんだろうなと思っていたので、今回話し合ってみて、彼が意外に自分の障がいに対してコンプレックスを持っていたのだなと驚きました。

畠中) その点では彼女の方が障がいに対してフラットな視点をもっていると言えるかもしれません。彼女から「親になったのに障がいなんか関係あるか、やれることをやれ」ってよく言われていました。むしろ受け止める僕の方が、障がい者であることにこだわっていたと思います。当時はピアカウンセリングとか自分らしくとか言いながらも、心の奥底では健常者のように生活するのが理想形だと感じていたんでしょうね。それって裏返せば、あるがままの自分を愛せていないっていうことです。よく彼女のせいにして責めていましたが、今となっては申し訳ない気持ちでいっぱいです。

真由美)我々の失敗がどなたかの役に立てばいいなあと思います。結婚は…もうしたくないですね…。

畠中) えっ、僕はチャンスがあればって少し思ってる。

真由美)…。                                                             

                                                        
畠中忠 
1977年生まれ鹿児島県出身、脳性麻痺2種2級
普通校、養護学校、訓練校を経て授産施設で働き、その後一般企業に就職。
退職後はグループホーム勤務ならびにNPO法人自立生活センター・津の立ち上げにかかわる。
2006年に独立し、現在はNPO法人CIL・ARCH代表を務める。
ダイエットとリバウンドを繰り返している。

畠中真由美
1980年生まれ三重県出身、社会福祉士
大学卒業後人材派遣会社に就職するもブラックすぎて退職。
その後自立生活センター・津のヘルパー兼事務として勤務。2006年に畠中とともに独立。
同年に畠中と結婚し女児を出産するも3年で離婚。
現在はNPO法人CIL・ARCHで勤務しつつ、合同会社ポエンテを設立。

合同会社ポエンテ 
ちょっと周りの人には相談しずらいような困りごとを解決しよう、という目標のもと、畠中真由美と畠中忠によって2019年6月に三重県で設立。
現在お悩み大募集中。
何かありましたらこちらへ→poentegk@gmail.com




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