僕はあの日、新潟にある実家で過ごしていた。突然「グラグラグラ」と揺れが起きた。地震だと思い、揺れがおさまるのを待ってから、テレビをつけた。震度は4だった。「結構揺れたね」と、親と話したのを覚えている。テレビで、地震速報が続々と流れていた。
14時48分
「東京のスタジオも揺れています」とNHKで放送していて、スタジオも緊迫した雰囲気になっていた。
TVの画面テロップでは14 時46 分に東北地方で強い地震があったことを伝えていた。
地震発生時、福島県郡山市では「経験したことのない、激しい揺れ」と、激しく揺れる市役所フロアをとらえるカメラがとらえていました。マグニチュード8.8という超巨大地震が起こったことは判明しましたが、この激しい揺れがどこでどんな被害をもたらしているのか、この段階では全くわからない状況でした。
14時50分頃
各地の被害の状況も、徐々に明らかになっていきました。また、津波と余震に対して、警戒を怠らないようアナウンサーは繰り返し訴え続けていました。
15時03分、東北3県に大津波警報発令!!
宮城県栗原市で震度7、岩手、宮城、福島の東北3県に大津波警報が出ていることを伝えている。
アナウンサーは海岸や川の河口に近づかないよう訴え続けていました。
15時26分
白波をたてて渦巻く波にのみこまれる町。大きな船が、工場のタンクが、桟橋が、次々と津波にのみこまれていく。
宮城県気仙沼市の港に設置されたカメラは、余震で小刻みに揺れながらも港が水没していく様子をとらえていました。
15時58分
空から撮影された、名取川を遡上する濁流。名取川を遡上した津波は濁流となって、河口付近の畑や住宅をのみこんでいます。空撮からの津波の映像に、僕は圧倒され、あらためて津波の恐ろしさを実感させられました。
16時頃
沿岸部からの津波の映像、被災者も増えていきました。東北地方沿岸部から津波の被害をとらえた映像が、次々と放送されていきます。
それに伴い死者、行方不明者の数も増えていき、カメラは福島県南相馬市の被災の様子を伝えています。翌日になって、この地区からさほど遠くない場所で、原発事故が起こっていたことが判明しました。
16時10分
大きな炎を上げて燃える製油所のタンクの映像を上空から中継していました。
首都圏で発生した大規模な災害をとらえた映像は、今回の震災の被害が東北地方以外にも及ぶ広範囲のものであることを示していました。
16時30分
震災直後の原発は、このときすでに津波の影響によって電源を喪失し、原発は危険な状態に突入しつつあったそうです。
16時46分
福島県いわき市小名浜湾からは、防波堤を乗り越え、津波がどんどん押し寄せる映像が中継されました。
沿岸部の住民には避難指示が出され、沿岸部各地域からは、大きな被害が出ているという情報が次々と放送されました。
16時40分頃
津波は青森県八戸市にも押し寄せ、漁船が岸壁に乗り上げ、家屋も流されていました。
これから夜を迎えるにあたって、アナウンサーは寒さへの備えを呼びかけていました。
18時06分
帰宅難民で、あふれた渋谷駅。首都圏でも鉄道などの交通機関が不通になったそうです。
渋谷駅では帰宅しようとする客であふれ、混乱する駅前の様子をカメラが映し出していました。
20時53分
徒歩で帰宅する人たち。ほとんどの鉄道会社が運転をとりやめたことから、人々は歩いて自宅に戻ろうとしていたそうです。品川区の第一京浜では、歩道からはみ出すほどの人の波が帰宅されていました。
2020.03.07、死者は1万5899人。行方不明者は遺体のDNA型鑑定で身元が特定されるなどして4人少なくなり、2529人となったそうです。(日本経済新聞引用)
僕は今、重度訪問介護の仕事をしていますが、死者1万5899人の中で、重度訪問介護を受けていた人は、いったい何人くらいいたのだろうか?
逃げる事さえ出来ず、亡くなってしまった方が何人いるのだろうか?
や、【東日本大震災】と言う言葉を耳にする度、胸が熱くなります。
宮城県仙台市出身の森久美子さんは、報道陣の取材に応じ、東日本大震災から10年が経過した現在の心境を語っており、報道陣から質問を受け「その話題(震災)になると、もう…」と涙ぐんだ森久美子さんは「震災から10年経っても、まだ被災地の皆さんの心の中のかさぶたが取れてない状態。前に進んではいるけど、後ろを振り返った時に当時の恐怖感を思い出す」と声を振り絞ったそうです。(2021.03.04夕方のLINEニュース引用)
東日本大震災から今年で10年。これからもずっとこの震災が忘れられないように、もう二度と震災で多くの方々が亡くならない様にと、祈るばかりです。