私には23歳になる娘がおり、
「骨形成不全症」という障害を持っている(前回記事に詳細)。
骨が弱い体質で、幼少期はよく大腿骨を骨折することがあった。
概ねこの障害は、大きくなるに連れて骨も強くなるので、骨折回数は減っていく傾向がある。
娘の場合は、つい最近、小さな骨折を10年ぶりぐらいにしたが、かなり久しぶりのことであった。
幼少期は15〜16回骨折したので、大きくなるにつれ折れにくくなったことはありがたいことだ。
骨形成不全症は、「骨粗鬆症」のように骨密度が低いことが特徴だが、
程度の差がかなりある。
100~200回以上も骨折する人もいれば、
一度も骨折したこともないような人もいて、程度は本当に様々だ。
白目がやや青みがかった「青色強膜」という特徴を持つ場合も多い。
骨形成不全症は、
ラテン語で「Osteo(骨)genesis(形成)Imperfecta(不全)」と称し、
通称「OI」と呼ばれる。
OIの発症率は2〜3万人に一人程度という統計があり、
10万人の都市であれば3〜5人程度OIの人がいるような計算となる。
宝くじで1億円が当たるよりよほど高い確率で、OIの子は生まれるのが統計的事実だ。
かつて「優生保護法」という法律がこの国にあった。
優生保護法の第一条は「優生上の見地から、不良な子孫の出生を防止する」と謳い、
大変に恐ろしい差別が堂々と法律化されていた。
人間を「良」と「不良」に分け、生命選別をすることを謳った法律であり恐ろしいが、
世界的にも、20世紀初頭から、特に第二次世界大戦前後に「優生思想」は席巻していた。
実に荒んだ時代であったと言える。
更に、日本の優生保護法には大変酷い「別表」が付記され、
「不良な子孫」として具体的に様々な障害が記載されていた。
ちなみに、骨形成不全症は書かれていなかったのだが、「青色強膜」は記載されていた。
生まれないほうが良い命として、私の娘もくくられていたことになる。
本当にひどい話だ。
優生保護法は1948年に成立して以来、
48年の時を経て1996年にやっと、
「母体保護法」と名前を変え、差別的内容が削除された。
ほんとうについ20年強前まで、このように酷い内容の法律が、普通のものとして存在していたことに驚く。
私の娘が生まれたのがちょうど1996年なので、象徴的な年に、娘は生まれたことになる。
娘の母・安積遊歩も同じ障害を持っており、
安積は、娘が生まれる前の1994年に、エジプトのカイロで行われた「人口と開発会議」にて、
優生保護法の酷さを訴え、日本にまだそのように差別的な法律が残存していることが世界的に話題となった。
多くの方々が障害者運動の中で、長い間その差別性を訴えてきた闘いの果てに、
安積も、自らの娘を授かるタイミングで優生保護法改正に貢献したことは素晴らしいと思う。
ナチスは、ユダヤ人の虐殺で有名だが、
熱烈な優生思想の推進者として、
障害を持つ人と同性愛の人たちも虐殺した。
「戦争」という特殊状況下では、
「役に立つ人間」か「役に立たない人間」か、という視点が先鋭化する。
戦時中に世界中を優生思想が席巻したこととは、
戦争の性質と優生思想の性質が密接であることがあると言える。
しかし、
障害を持つ人は、社会の中に、必ず一定の割合で生まれてくる。
100人いれば3〜5人程度は何らかの障害を持つことが、
概ねの世界平均であり、
私達人類は、常にそのような多様性を持つ。
「構成員に手助けが必要な人がいれば支援し、その仕組みを幾重にもつくる」
ということが、社会の基本である必要があり、
そのようなセーフティーネットが、
いつか自らを救うことになるのは、
超高齢化社会に突入しつつある私達には、
明白なことだ。
法律は変わっても、
私達一人ひとりの意識や、
社会通念、
そして制度が変わっていくことには、色々なプロセスと時間を要する。
土屋訪問が取り組んでいる訪問介護事業は、
じわじわとセーフティーネットを広げていく取り組みの一つと言える。
介護難民がまだまだ多い中で、
私達のなすべきこと、そしてやれることは、まだまだたくさんある。
「日本型福祉」として「家族間の相互扶助」がかつて1970年代に謳われたが、
家族だけに任せようとするとき、介護自殺や介護苦殺害などの事件が起きるのは当然の帰結だ。
村落共同体や大家族が概ね失われた時代の中で、
優生思想的あり方の短絡に陥らず、
どうやって新しく社会のセーフティーネットを形成していくかのチャレンジに、
私達は直面している。
そのチャレンジの非常にささやかな事例として、
娘が多くの人の手の中で、また各種制度も活用しながら育ってきた様子についてなど、
これからの連載で更に綴ってゆきたい。
連載1「稀有な共生家族を生きてきた節目に 〜“苦の中の未来”によせて〜」
【略歴】
1972年神戸生まれ。早稲田大学第一文学部卒。在学中に障害者運動の旗手の一人である安積遊歩と出会い、卒業後すぐに安積と同じ骨の弱い障害を持つ愛娘宇宙(うみ)を授かる。猛烈な家事育児介助とパートナーシップの日々は、「車イスからの宣戦布告」「女に選ばれる男たち」(共に太郎次郎社刊)に詳しい。資格持ちヘルパーとして長年介助の仕事をしながら、フリースクール運営や、Webサイト作成・システム構築業に従事。2011年の東日本大震災・原発事故以降は、「こどもみらい測定所」代表、全国の測定所のネットワークの「みんなのデータサイト」事務局長・共同代表を務め、放射能測定・対策活動に奔走。2018年初頭からユースタイルラボラトリー・土屋訪問介護事業所の社内システムエンジニアとなり、長いケア領域の経験とWeb関連技術のスキルを生かして活動中。安積とは紆余曲折の末パートナーシップを解消し、今は新家族と猫と暮らす日々。
「骨形成不全症」という障害を持っている(前回記事に詳細)。
骨が弱い体質で、幼少期はよく大腿骨を骨折することがあった。
概ねこの障害は、大きくなるに連れて骨も強くなるので、骨折回数は減っていく傾向がある。
娘の場合は、つい最近、小さな骨折を10年ぶりぐらいにしたが、かなり久しぶりのことであった。
幼少期は15〜16回骨折したので、大きくなるにつれ折れにくくなったことはありがたいことだ。
骨形成不全症は、「骨粗鬆症」のように骨密度が低いことが特徴だが、
程度の差がかなりある。
100~200回以上も骨折する人もいれば、
一度も骨折したこともないような人もいて、程度は本当に様々だ。
白目がやや青みがかった「青色強膜」という特徴を持つ場合も多い。
骨形成不全症は、
ラテン語で「Osteo(骨)genesis(形成)Imperfecta(不全)」と称し、
通称「OI」と呼ばれる。
OIの発症率は2〜3万人に一人程度という統計があり、
10万人の都市であれば3〜5人程度OIの人がいるような計算となる。
宝くじで1億円が当たるよりよほど高い確率で、OIの子は生まれるのが統計的事実だ。
かつて「優生保護法」という法律がこの国にあった。
優生保護法の第一条は「優生上の見地から、不良な子孫の出生を防止する」と謳い、
大変に恐ろしい差別が堂々と法律化されていた。
人間を「良」と「不良」に分け、生命選別をすることを謳った法律であり恐ろしいが、
世界的にも、20世紀初頭から、特に第二次世界大戦前後に「優生思想」は席巻していた。
実に荒んだ時代であったと言える。
更に、日本の優生保護法には大変酷い「別表」が付記され、
「不良な子孫」として具体的に様々な障害が記載されていた。
ちなみに、骨形成不全症は書かれていなかったのだが、「青色強膜」は記載されていた。
生まれないほうが良い命として、私の娘もくくられていたことになる。
本当にひどい話だ。
優生保護法は1948年に成立して以来、
48年の時を経て1996年にやっと、
「母体保護法」と名前を変え、差別的内容が削除された。
ほんとうについ20年強前まで、このように酷い内容の法律が、普通のものとして存在していたことに驚く。
私の娘が生まれたのがちょうど1996年なので、象徴的な年に、娘は生まれたことになる。
娘の母・安積遊歩も同じ障害を持っており、
安積は、娘が生まれる前の1994年に、エジプトのカイロで行われた「人口と開発会議」にて、
優生保護法の酷さを訴え、日本にまだそのように差別的な法律が残存していることが世界的に話題となった。
多くの方々が障害者運動の中で、長い間その差別性を訴えてきた闘いの果てに、
安積も、自らの娘を授かるタイミングで優生保護法改正に貢献したことは素晴らしいと思う。
ナチスは、ユダヤ人の虐殺で有名だが、
熱烈な優生思想の推進者として、
障害を持つ人と同性愛の人たちも虐殺した。
「戦争」という特殊状況下では、
「役に立つ人間」か「役に立たない人間」か、という視点が先鋭化する。
戦時中に世界中を優生思想が席巻したこととは、
戦争の性質と優生思想の性質が密接であることがあると言える。
しかし、
障害を持つ人は、社会の中に、必ず一定の割合で生まれてくる。
100人いれば3〜5人程度は何らかの障害を持つことが、
概ねの世界平均であり、
私達人類は、常にそのような多様性を持つ。
「構成員に手助けが必要な人がいれば支援し、その仕組みを幾重にもつくる」
ということが、社会の基本である必要があり、
そのようなセーフティーネットが、
いつか自らを救うことになるのは、
超高齢化社会に突入しつつある私達には、
明白なことだ。
法律は変わっても、
私達一人ひとりの意識や、
社会通念、
そして制度が変わっていくことには、色々なプロセスと時間を要する。
土屋訪問が取り組んでいる訪問介護事業は、
じわじわとセーフティーネットを広げていく取り組みの一つと言える。
介護難民がまだまだ多い中で、
私達のなすべきこと、そしてやれることは、まだまだたくさんある。
「日本型福祉」として「家族間の相互扶助」がかつて1970年代に謳われたが、
家族だけに任せようとするとき、介護自殺や介護苦殺害などの事件が起きるのは当然の帰結だ。
村落共同体や大家族が概ね失われた時代の中で、
優生思想的あり方の短絡に陥らず、
どうやって新しく社会のセーフティーネットを形成していくかのチャレンジに、
私達は直面している。
そのチャレンジの非常にささやかな事例として、
娘が多くの人の手の中で、また各種制度も活用しながら育ってきた様子についてなど、
これからの連載で更に綴ってゆきたい。
連載1「稀有な共生家族を生きてきた節目に 〜“苦の中の未来”によせて〜」
【略歴】
1972年神戸生まれ。早稲田大学第一文学部卒。在学中に障害者運動の旗手の一人である安積遊歩と出会い、卒業後すぐに安積と同じ骨の弱い障害を持つ愛娘宇宙(うみ)を授かる。猛烈な家事育児介助とパートナーシップの日々は、「車イスからの宣戦布告」「女に選ばれる男たち」(共に太郎次郎社刊)に詳しい。資格持ちヘルパーとして長年介助の仕事をしながら、フリースクール運営や、Webサイト作成・システム構築業に従事。2011年の東日本大震災・原発事故以降は、「こどもみらい測定所」代表、全国の測定所のネットワークの「みんなのデータサイト」事務局長・共同代表を務め、放射能測定・対策活動に奔走。2018年初頭からユースタイルラボラトリー・土屋訪問介護事業所の社内システムエンジニアとなり、長いケア領域の経験とWeb関連技術のスキルを生かして活動中。安積とは紆余曲折の末パートナーシップを解消し、今は新家族と猫と暮らす日々。